2017年4月3日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)  ・【近代日本150年 明治の群像】

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)  ・【近代日本150年 明治の群像】西郷隆盛
神田 蘭(講談師)
来年は日本の近代化が始まった明治元年から150年になります。
近代日本の基礎を作った明治の人にスポットを当て、東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんと語り合っていきます。

祖父母が明治の生まれで祖父母の影響が多かったと思う。
西郷隆盛
海音寺潮五郎がこよなく愛していたのが西郷さん。
内村鑑三の「代表的日本人」の著作の中でも、西郷の事を絶賛している。
江戸幕府を倒した西郷隆盛は官の中心になりました。
10年後明治新政府に納得がいかず乱をおこし賊軍となる。
それから12年後、大日本帝国憲法を発布するときに、賊名を解かれて、正三位を授与され官に返り咲く。
その後上野公園に銅像が建てられる。(薩摩藩出身者が声をかけて、宮内省から下賜された500円と全国の寄付金(2万5000人)で建てられた。)
除幕式に参加した妻の「糸子」さんは似て居ないと云ったそうだ。
奄美大島にいた時に「愛加那(あいかな)」という女性に惚れられて結ばれる。(その後彼女は西郷を想って一生独身で過ごす)
「糸子」は「愛加那」が生んだ菊次郎を引き取り一緒に育てる。
後に菊次郎は台湾総督府の役人から京都市長にまで登りつめる。

1回目「伊集院須賀」と25歳の時に結婚、2回目が「愛加那」、3回目が岩山八郎太の23歳の娘、「糸子」と結婚(本妻)
薩摩藩邸は田町に有ったが、他の藩士は品川宿の女郎屋に行ったようだが、西郷さんは全くかどうか判らないが、行っていなかったようです。
「英雄色を好む」という言葉があるがそうではなかったようです。
薩長同盟
坂本龍馬が出てくるが、決断をしたのが西郷さんだったと考えられている。
江戸城の無血開城
当時100万人がいたので、犠牲になっていた可能性があるので国作りが遅れたのではないかと思う。
江戸は破壊され首都は大阪になっていたかもしれない。
明治新政府への参加
一旦鹿児島に帰るが大久保利通から参加を要請される。
明治4年11月から明治6年10月まで岩倉使節団が欧米視察に行くが、西郷留守内閣が出来る。
西郷さんが実質的にGOサインを出していた。(最終決定は明治天皇だが)
廃藩置県、藩が無くなってしまう、武士の世の中が変わると云うこと。
西郷さんの力があったればこそ出来たと言われている。
武士だった人たちは役人になった人もいるが、教育者になった人もいて、商売を始めた人もいるが財産を無くしてしまった人もいる。

学制の制定
教育こそが国の基礎であるということを地で行った。
小学校、中学校、大学校を作り、男女ともに小学校に行くという義務教育を導入した。
識字率はほぼ100%が達成された。
お茶の水女子大学(東京女学校)、教育大学(東京師範学校)も作っている。
薩摩は子弟教育が盛んだったので、その辺りからきているかもしれない。
郷中教育

鉄道開業 
明治5年9月 当時の技術としては吃驚。
新橋ー横浜の間に機関車が走る。(近代化の代表)
太陽暦の採用
日本を新しくしようと明治5年12月3日を明治6年1月1日にしてしまった。
キリスト教の自由化
宗教は自由であるということになる。
西郷さんは古い感じのする人だが凄く開明的な事をやっている。
西郷さんは寛容、それが魅力。

林真理子さんの西郷像の見方 「西郷(せご)どん」の原作者(来年の大河ドラマ)
すべての人を引きつけずにはいられない、会うと西郷さんのことを好きになってしまう。
決断の時すばやくて、相手のことを思いやる。
無血開城 掛け引きなどが書かれていないが、小説家としてそれを描く言葉を考えているが難しい。
物事(富、名誉、地位)に執着しない、自由な心が生まれる人だと思っている。
義を尊ぶ、庄内藩は官軍と戦って降伏したが、西郷さんが救いの手を差し伸べた。
藩主から下々の人まで西郷ファンになってしまって、西郷さんのところに遊学させたりした。

西郷隆盛の義理の妹に当たる人の肉声が残っていた。岩山トクさん(95歳)
(隆盛の奥さんの弟の嫁さん 昭和27年6月の録音)
鹿児島市長との対談 「優しい人だった。」「なんでもおいしいと食べました。」・・・。 「兄弟仲良くしてました。」・・・。 等々。
1857年生まれ 隆盛が亡くなった時は20歳だった。
もし今いたら女性の総理大臣を出せとか、言ったんではないかと思います。(本郷)
今の日本はこうなってしまったのかなあと嘆いているかもしれない(神田)
政府関係者は西郷さんに叩かれているかもしれない。(本郷)