2017年4月29日土曜日

渡辺和子(ノートルダム清心学園理事長)・母を語る(H16/11/16 OA)

渡辺和子(ノートルダム清心学園理事長)・母を語る(H16/11/16 OA)
渡辺さんは昭和2年北海道旭川市で生まれました。
昭和11年小学校3年生の時に2・26事件に遭遇、当時教育総監だった父親が自宅の居間で43発の銃弾を受けて命を落とすのを目撃します。
その後母に厳しく育てられ、18歳で洗礼を受けます。
聖心女子大学を経て、上智大学大学院を卒業後、30歳で岡山ノートルダム修道会に入り
アメリカボストンカレッジ大学院に派遣されます。
帰国後、36歳で岡山ノートルダム聖心女子大学の学長となり、長年教壇に立ち学生の指導や支えになってこられました。
2012年に発売された著書、「おかれた場所で咲きなさい」は200万部を超えるベストセラーになりました。
2016年12月89歳で亡くなられました。

家は浄土真宗でした。
父、渡辺錠太郎(教育総監)は2・26事件で亡くなりました。
父が中将で旭川の第一師団の師団長を命ぜられて旭川にいたときに生まれました。
姉は22歳年上で、そのあと兄が生まれ、3年して下の兄が生まれ、3年たって4人目として生まれました。
生まれた時は姉は結婚していて、同じ昭和2年に孫と娘と両方を設けたわけです。
母は恥ずかしがって産みたくなかったと後で聞きました。
男が児を産むのはおかしいが女が児を産んで何がおかしいと言って、父が母を説得して産んでもらって、私は父が好きでした。
父が53歳、母が44歳でした。
北海道では2歳まで暮らしました。

台湾の軍司令官になって台湾に行って、1年して東京に戻った時には陸軍大将になって、荻窪に家を建てて4歳から30歳まで過ごしています。
成蹊小学校はユニークな学校でした。
男女共学で同じ1人の先生のもとで30人仲良く一緒に6年間過ごしました。
9歳で2・26事件に遭遇しました。
その日のことは鮮明に覚えていますが、心に傷を受けたと言うことは思っていません。
雪がたくさん降っていました。。
朝6時前に門の前にトラックが止まって、怒号が聞こえて、父母と一緒に寝て居て、父は
すぐに私を起こして母のところに行きましたが、母は気丈な人で兵士たちを阻止していて、私のことなど構ってくれないので父の所に戻ってきましたが、弾が飛び交っていましたが、かいくぐって父の所に行きましたが、父は射撃の名手だったのでピストルを構えていたが、私を見てとっても困った顔を見せました。

座卓の後ろに隠れるように目で合図をしてくれました。。
ふすまを細めに開けて、軽機関銃を据えて父の足を狙って打ち始めました。
父が動けなるのを見澄まして、成年将校、兵卒5,6人入ってきて父にとどめを刺して去ってゆく一部始終を見守りました。
父の言葉で産んでもらった娘に最後を看取られて、死んでいったのかなあと、今なぜ自分がこの世に産んでもらったのか、そのためだったのかと思う時があります。
血の海の中で事切れて居ました。
「お父様」と呼んだんですけれど答えてはくれませんでした。
母が入ってきて、外に出て居なさいと言われて、私はそこにはおりませんでした。
検死の後に、父にちょっと触ったのですが、とっても冷たくてその冷たい感触が今でも思い出されます。

居合わせて父の最期をみとったと言うことに対して、母は何にもコメントはなかったです。
母は涙一滴も涙を流しませんでした、気丈過ぎるぐらいで、それで今の私があると思いますが。
子供達(9歳、12歳、15歳)3人がいましたが、これからはお父様と二人分厳しくしつけますと宣言して、お父様の名前を恥ずかしめることのないようにと、厳しく申し渡されました。
雙葉高等女学校、ミッションスクールに通うことになる。
しつけは母とは違った意味で厳しくて、大変反発を覚えて、キリスト教には背を向けて卒業しました。
中学校1~2年生の時に2回ほど補導されたことがあります。
2年生の夏に母親が校長様に暑中見舞いを書きなさいといわれて書いたのですが、自筆で「和子さん暑中見舞いありがとう、早く学校に戻っていらしゃい」と返信が来て、それが私の改心のきっかけになりまして、こんなに悪い子でも校長先生が大事にして下さると、少し改心しました。
3年生の時に第二次世界大戦がはじまり、宗教行事も少なくなりましたが。
3年生からは級長をして、卒業の時は答辞も読みました。
母は1番になりなさい、100点を取りなさいと常に言っていました。

90何点とってもこれで家に入ったら母に叱られる、家出をしようと思ったことがあります。
母は愛知県の田舎の家の12人兄弟の長女で高等小学校しか行っていませんでした。
父が相当母に対して教育をしたようで、自分でも相当勉強したようです。
母は口答えを一切許さなかったです。
キリスト教、クリスチャンになりましが母は大反対でした。
母に反抗する、学問のない母を或る程度軽蔑するような気持があったと思うんです。
洗礼を受けていいか聞いたときに、母は頭から反対されましたが、反対されるほど受けてやろと思いました。
戦争のさなかにも関わらずクリスチャンになるのは何事だと、受けてはいけないと言われましたが、四谷から雙葉まで歩いていき、一日がかりでしたが、一晩泊って翌朝洗礼を受けて家に帰って来ました。

母は非常に腹を立てて3日間口をきいてくれませんでした。
疎開をしなくてはいけなくなって和解しなければいけなくなって山梨県に疎開しました。
山梨県でカトリックの幼稚園に勤めるようになり、そのうち戦争が終わって東京に戻ってきました。
聖心女子高等専門学校の国文にはいって卒業ましたが、足りないと言うことで、経済的にも困っていて、これからは英語が必要だと言われて、先を見る目があり賢い人だったと思います。
英文科に入り直そうと、1948年新制大学の一期生として入り、1951年に卒業しました。
母の言ったことに感謝しています。
母は人はみんな自分が一番かわいいんだから人様を当てにしてはいけない、自分で自分の出来ることは自分でしないといけない、学問もできることは出来るとこまで身に付けて、お金で何も残してあげることはできないので、学問を身につける事、そして甘えると言うことを一切させてくれませんでした。

父から9年間は可愛がってもらいましたが、母に甘えたと言うことはありませんでした。
父は私を膝の上に載せて論語を判る言葉で教えてくれました。
母のお陰で修道院に行っても辛いと思ったことはありませんでした。
30歳近くまで母といたので、母を残して修道院にはいることはちょっと後ろ髪を引かれる思いはありました。
私はお父様のようなかたと結婚するという気持ちがあったんですが、生まれた時には陸軍中将でみんなから尊敬されて居る人しか知らないので、自分とあまり違わない人とのお付き合いもありましたが、何か物足りないものがあって、それが修道院に入った一つのきっかけになったと思います。
決して裏切ることのない、尊敬することがいつもできる、その方を男友達の中に見出すことが出来なかった。
神の配偶者となると言うことに理性的に思い立ったと思います。

何故修道院にはいらなければいけないのかと母から言われました。
結婚するだけが女の幸せではないからねと、或る時に言ってくれました。
修道院で6年すると一人前の修道者になります。
37歳で東京に戻って私が学長になったと言うことを非常に喜んで、父の後を継いだ(父は教育総監だったので)と言ってくれました。
私が父のような人と結婚するという気持ちを持っていたと言うことは母は知っていたと思います、それは無理だと言われました。
わたしが知っている父と母が知っている父とは違います。
理想化している部分があるとは思いますが。
わたしは父に非常にかわいがられて、9年間に一生涯分の愛情をうけた様に思うほど可愛がられたと言うことがあり、愛情不足と言う気持ちはなくて育ったことと、父の努力する姿、本をよく読んでいる姿を見て育っています。

母からは厳しくしつけられましたが、質素なことを教えてもらい、贅沢はしてはいけない、お金を使う時はいくら使ってもいいけど、無駄なお金を使ってはいけないと言うことを教えてもらいました。
修道院から家に戻ってきたときに、母から「あなたはこれで良かったわね」と言ってくれました。
それがわたしの母への親孝行かと思っています。
父の仕事の後を引き継いでさせていただくと言う気持ちは持っていました。