中野慶(児童読み物作家) ・ヒロシマの意味を問い続けて
東京都生まれ59歳 1976年に原水爆禁止運動で被爆者と出会った事から反核運動に参加、出版社で編集者として働きながら、被爆体験の聞き取りを続けて来ました。
アトピー性皮膚炎で苦しんだ自身の体験から被爆者のかゆみに着目し、かゆみを通して被爆者の苦しみに向き合う中学生を描いた児童文学「やんばる君」を執筆するなど、独自の視点から独自の被爆体験を残そうとしています。
中野さんがプロ野球広島カープの新井選手の歩みを絵本にまとめました。
広島にかかわる深いメッセージが込められています。
年々継承が困難になっていると言われる被爆体験を次の世代にどう繋いでいくかお聞きしました。
新井選手は25年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。
今年40歳の大ベテランでカープの中心選手。
小学校3年生の時の新井選手に光を当てて、1985年の物語としてこの本は始まっています。
人間的な魅力、素晴らしいひたむきな人柄を子供からお年寄りまでお伝えしたいと思いました。
野球を中心に新井選手の成長物語を書いていますが、脇役が二人登場して、ブツエン先生と「はだしのゲン」で有名な中沢啓治さんです。
中沢さん自身被爆者で原爆でお父さんと、兄弟二人を亡くされています。
この本では中沢さんのもう二度と原爆を繰り返して欲しくないという強い思いを若い世代にブツエン先生と、新井選手が受け止めて行くことが書かれています。
被曝の苦しみと貧しさにも負けずに生きてきた広島の皆さんにとっては広島カープは市民球団で心のよりどころになっています。
25年ぶりの優勝を喜ぶファンの皆さんの心の奥には苦しかった時代の思い出がいつも離れない。
新井選手の成長物語と25年ぶりの優勝を祝っていただける喜んで頂ける内容となっています。
新井さんは放課後遅くまで「はだしのゲン」の本を全巻読んだそうです。
被爆者の戦後の苦しみが並大抵ではなかった、肉親を奪われ食べるもの住む家がない中で人生を歩まざるを得なかった。
踏まれれば踏まれるほど強く生きて行く、ひたむきで強い姿は新井さんが子供時代に「はだしのゲン」に出会った事に深く影響されていると思います。
中沢さんは広島カープ誕生から熱狂的なファンです。
中沢さんは新井選手をずーっと応援してきました。
私は子供時代は東京で育って身近に被爆者はいませんでした。
初めて被爆者の証言に耳を傾けたのは1976年大学1年生の時でした。
悲惨さ地獄絵のようなことに信じられない思いでした。
8月6日、9日は重要な事ではありますが、被爆者であるがゆえに仕事に出会えない、結婚に反対されるとか、さまざま差別を受けたと云う事を含めて、多くの苦しみ悲しみがあったということに目を向けていきたいと思うようになりました。
少しでも理解したいと思いました。
被爆者の証言する機会があると思うと積極的に動いて聞き取り調査をしていきました。
1対1の証言では50人を超えたと思います。
複数を対象にしたことを含めれば100人は超えています。
1985年行宗一さんらと話をしたときに、「皆さんたちは私たち被爆者をカンパを届ける対象としていつまでも見ないでください、このようにお酒を飲んだり、話したり人間同士の付き合いをして行きましょう」と言われた時はハッとしました。
カンパをしなくてはいけないと感じましたが、お金の面だけではなくてもっと一人ひとりの被爆者に人間として向き合ってゆく、親しくなってゆく事が大事だと云う事を強く感じる様になりました。
その2年前に、1983年に肥田舜太郎先生、医者で被爆者でもある方で、先日100歳で亡くなられました。
医師として広島で被爆者と向き合っていたときに、被爆者の数人の方がケロイドの個所を猛烈にかゆがってつらそうにしている、そういうエピソードを話されて、私にとって吃驚仰天するような話だったんです。
私は子供の時からアトピー性皮膚炎で苦しんで来ました。
被爆者は自分とはまったく違う世界に住んでいると思っていたが、かゆみの苦痛をしている被爆者がいたんだと云うことで被爆者との距離が近づいた様に思います。
「やんばる君」 2000年に書いている、被爆者のかゆみについて書いています。
1995年 中学校1年生が主人公でアトピー性皮膚炎でかゆみに苦しんでいる少年。
ヤンバルクイナにちなんだ少年のニックネーム
彼は夏休みの自由研究で沖縄に行きたかったが、広島の事にテーマを切り替え、被爆者のかゆみの問題に直面して、その少年が被爆者から聞き取って行く、自分の皮膚感覚と通じ合う被爆者の苦しみから学び取ってゆくということはまさに私が感じ取ったことです。
被爆者はケロイドの痒さを大げさにはしないが、何故だろうと思い、かゆみも苦痛だったろうけれども、8月6日の広島でおびただしい人が亡くなって行く、助けることもできない。
その後の差別などの苦しみにも直面して行く、結果としてかゆみの苦痛はより相対的にちいさな事になってしまった。
自分自身が感じ取ったことを変形しながら書いたものです。
本当のところを感じ取ってくれたのは大人の方が多かったです。
編集者の仕事が忙しくて夜中までやっていましたが、その上に自分の本を出すということは困難な事でしたが、無名な人がひたむきに生きてきたことがとても大事だという人生観を持って来たので、歴史を動かすのは無名な民衆であるということを信じてきたものです。
若い世代に被爆体験を問い続ける本を何冊も書いてきました。
爆心地から2km離れた広島の或る地域に25回ぐらい通って、そこは被爆に苦しむ人が多くて、60人ぐらいの人から3年数か月かけて聞き取りをして、その町の戦後史を聞き取る中で本名で本を出す事が出来ました。
人間を見る目がすこしづつ豊かになったかなと思っています。
一人ひとりが人間として何に向き合ってきたのか、人に語らずに墓場にもっていきたいと言う思いの人もいれば、胸に秘めてきたことを私に語ってくれる人もいます。
かけがえのない出会いを出来たと思います。
被爆体験はつらく重たいことなので被爆者から2世、3世に伝わって行く事は難しい。
被爆者は高齢になってしまったが、なんとか証言を続けている方が多いが、専門家としてデジタルアーカイブの様な形で世界に発信していることもあり、広島に関心を持ってくれる条件はあると思います。
長い時間の流れの中で被爆者がどう生きて来たのかとか、どのような喜び悲しみ苦しみ辛さがあったのかと言うことをしっかり聞きとろうとしてきました。
原爆の被害によって人生が変えられてしまった人たちをトータルにとらえなおすことが必要ではないかと思います。
大多数の被爆者は有名ではないし、広島長崎に暮らしていた庶民として被爆と言うすさまじい体験をして、それを乗り越えて生きたという事は、庶民の歴史でありながら世界史そのものに足跡を刻んできた。
語り口は淡々としているが何度聞き直しても重たいものを持っているし、自分自身を奮起させてくれるようなものを持っていると思います。
自分はまだ被爆者の苦しみを本当に理解出来て居ない、被爆者の苦しみの本当のところをつかみとっていきたいと人一倍強かったが、被爆者の苦しみに寄り添う形で生きてきて、それが宝物だったように思います。