2017年4月26日水曜日

ペギー葉山(歌手)         ・芸の道 輝きつづけて(H28/11/7 OA)

ペギー葉山(歌手)   ・芸の道 輝きつづけて(H28/11/7 OA)
ペギー葉山さんはラジオ深夜便では夜明けのメロディーや想い出の岬など深夜便の歌でもおなじみの方でした。
ペギー葉山さんは東京四谷の出身、高校在学中から米軍キャンプで歌い始め、1952年レコードデビュー、「南国土佐を後にして」、「学生時代」、「ドレミの歌」、「ラ・ノビア」など沢山のヒット曲をおもちです。
生涯に録音した曲は2000曲以上、平成16年には旭日小綬章を受章されました。
平成19年から3年間、日本歌手協会会長を務めました。
歌手生活65年を目前にしたペギー葉山さんに伺いました。

高校2年からウイークエンドなどに米軍キャンプにいって歌っていました。
当時ラジオが唯一の娯楽でした。
異国の兵隊がもっと歌ってくれと言ってくれるのが、ものすごくうれしかったです。
クラシックの勉強をしていましたが、ジャズのうたいてに憧れて、音源が欲しくて、デパートでヒットしている曲を売っている場所があり、そこから手に入れて勉強しました。
ペギーは米国の人から英語の名前を付けてもらうことになり、その人から「ペギー」と云う名前を付けてもらって、「葉山」(天皇陛下の御用邸もあるのでいいイメージと言うこともあり)も付け加えて「ペギー葉山」になりました。
「南国土佐を後にして」 昭和33年に歌う。(デビューは昭和27年)
ジャズを歌っていたが、本場のジャズを勉強したいと思って昭和30年にアメリカに行きました。
渡辺弘さんが本場の物を聞いてみて来なさいと言われて行きました。
一人で行きましたが、アメリカは興奮のしっぱなしでした。

ニューヨーク、ハリウッドに行ってスターに逢うことになりました。
ラスベガスでは憧れの歌手が歌っていて聞かせてもらって、知り合いになったラスベガスの大きなとばく場の社長から無料で見たいものを全部見せてあげると言ってくれました。
歌とおしゃべりと踊りとその空間のタイミングの良さにびっくりしました。
日本に帰ってきて日劇で帰朝第1回のショーをやって、ミュージカルをやろうと思って、記者会見したらミュージカルって何と言われました。
NHKの高知放送が開局でそちらの方に行ってしまいました。
ディレクターからとにかく歌ってほしいと頼まれて、「南国土佐を後にして」を歌うことになりました。
鈴木美恵子さん(民謡の歌手)が何かのSP盤の裏に歌っていたのをディレクターが見つけて、高知放送局の開局に歌ってほしいと言われました。

「南国土佐を後にして」を聴衆の前で歌い始めたら、客席が静かになり、やっぱり歌うのではなかったと思っていたら、その後全員が手拍子で一緒に歌ってくれました。
何時も歌う時の拍手とは全然違っていて、立ちすくんでしまいました。
知事さんが飛んできていい歌を歌ってくれたと言ってくれました。
1回だけ歌ってもう歌わないと思っていたが、トルコから帰って来てから、何時レコーディングをするのかと言われて、レコーディングをしました。
これで卒業だと思ったら、歌がトップになり、歌うはめになり約束が違うと思っていたら、小林旭さんの「南国土佐を後にして」という映画もあり、映画出演にもなってしまいました。
ジャズもやっていましたが、「南国土佐を後にして」を歌ってほしいと言われました。
「学生時代」平岡精二作詞・作曲)もヒットする。
最初大学時代と言う名称だったが、「学生時代」にしてほしいと私が言って、最終的に「学生時代」になりました。

2度目のアメリカ訪問の時に「ドレミ」の歌と出会うが、その前に「南国土佐を後にして」を歌ってほしいと2世、3世の方から要望があって歌って、その後ニューヨークに行ったらサウンドオブミュージックに出会いまいた。
これだと思ったのが「ドレミ」の歌でした。
LPレコードを買って持ち帰りました。
「ドレミ」の歌を聞いた晩に日本語にしようと思って、ファがなかなか思い浮かばなくて、ファはファイトと言う言葉を思い浮かんで「ファイト」になりました。
「ラ・ノビア」ブラジルの曲で原曲はポルトガル語で、イタリア語で「ラ・ノビア」。
ポルトガル語で勉強して覚えましたが、タイトルだけ「ラ・ノビア」となりました。
若い人に、歌にはジャンルがないので、歌謡曲を歌っていても英語の歌だったらこういう歌も歌ったらと勧めることがあります。

65年はあっという間でした。
胸に穴があいてしまって、病気をしたこともありました。
療養している最中にケネディー大統領の暗殺事件もありました。
「芽生えてそして」と言う歌を歌って倒れて、菅原洋一さんがそのあと歌ってくれてよかったと思います。
根上淳さんが見舞いに来てくれて、結婚することになりました。
彼が倒れた時はショックでした、経験した人でないと判らないと思います。
1998年に根上が糖尿病合併症から来る脳梗塞で倒れてから2005年に亡くなるまで歌手業の傍ら在宅介護を続けました。
施設に行って歌うことがあるが、みんな歌う時は目が輝いていて一緒に歌ってくれます。
みんな自分が育った環境の中に聞いた歌があります。
軍歌、母が歌ってくれた子守唄などみんな心に在ります。
限りなく新しい歌を覚えて歌っていきたいと思っています。
フランス語、ドイツ語を勉強して、ちょっとでも歌ってみたい。