山本一力(作家) ・歴史にみる土佐人の気質
山本さんは昭和23年高知市で生まれ、少年時代を高知市で過ごした後、14歳で東京に移りました。
その後旅行会社勤務やコピーライターなどのさまざまな職業を経て、46歳で作家になり平成14年に「あかね空」で直木賞を受賞されました。
時代小説を中心に数多くの作品を発表しています。
自身の人生、ジョン万次郎初め小説に書いてきた高知県出身の人物を通して土佐人の気質を考察します。
窪川の町に来て思ったことは町がまだ達者でいるなと云う事、喫茶店の小さな女の子が行った先が天ぷら屋さんでした。
私達夫婦も行ってコロッケといも天が大好きなので買ったら、たこ焼きもあると云うことで、喫茶店から来ていた女の子の母親らしき人が喫茶店をやっていて、喫茶店でもたこ焼き食べていいと云うことでした。
「お嬢さんですか」と聞いたら孫と云うことでした。
かみさんは脇にいて「おとうさん」と私に向かって呼びかけたので、そのママさんはうちのかみさんを見てお嬢さんですかと云うことでした。
コーヒーを存分にいただいたが、そこのママさんはこの窪川で一歩も外に出てないとのことでしたが、良い町ですよとおっしゃいました。
郷土を自慢してくださる物の言い方がものすごくうれしかった。
わが町を自慢すると云うことは本当に大事な事、そのことに触れられて物凄くうれしかった。
喫茶店を出て、国道の信号があり渡ってきたら、女子中学生が歩いてきた。
どこのだれかもわからない私たちでしたが、すれ違う直前で4人の女の子たちが「こんにちは」と笑顔を見せてから挨拶された。
「こんにちは」と云い返して「だれにでもそういうの」と聞いたら「はい」と云って嬉しそうな笑顔で去って行った。
自転車に乗った女の子たち二人、すれ違いざまに「こんにちは」と云いました。
最近の自転車のマナーは凄く悪い、無灯火で走ったりする。
自転車がそちらに向かっていますよと云う為の明かりです。(人を気にしていないと云う事)
すれ違いざまにあいさつをすると云うことは、人が来ているということを自分が認めて居て、「こんにちわ」と云う。
本当に心が温まります。
学校で教わってるのかと聞いたら、自分たちでそういう風にしているとのことだった。
「自由は土佐の山間から」と云う言葉が今も残っています。
土佐人の大事なもののひとつは自分たちが基を作っていくんだという強い志です。
俺たちが始めるんだという気概と、やりたければどうぞ一緒にやってくださいという心の大きさ、こういうものが土佐にはずーっと伝わってきているんだと、高知を舞台にした小説を書くなかで強く思います。
名前を求めない、やったことであれは俺だと後に名前を残そうとしない。
ジョン万次郎、日本人で初めてアメリカの本土を踏みました。
英語を覚えて帰って来た。
万次郎が漂流民でアメリカに暮らしていたということは、黒船でやってきた日本にやってきた、1853年に日本にやってきたペリーが、アメリカのニューポートにいたときにすでにそういう情報を得て居ました。
情報を得ようと万次郎の所に行こうとしたが、すでに日本に帰ろうとして西海岸のサクラメントの近郊に行っていませんでした。
ペリーが後年日本に軍艦4隻で日本に入ってきて、浦賀に来た時には通訳の控えとして幕府から任命を受けて居る。
そのあとも咸臨丸に乗って太平洋を横断したが、万次郎は主要な乗組員として、活躍した。
明治維新の政府になった後、名を求めて要職に付くことは一切せずに、弓町(有楽町駅の近く)と云う所で一市井の人間として生涯を閉じて居る。
ハワイにいたデーモン神父(万次郎を直に育ててくれた)が日本にやって来たときに万次郎はどういう職について、日本の政治の中枢に座ってるか楽しみに来たら、何の官職にもついていなかったので、憤っていたと云っている。
自分が裏側に回った事をよしとした。
土佐藩の藩主2代目忠義公の頃、野中兼山と云う奉行がいた。
信任が厚かった。
最後には失脚をして血筋が絶えるまで、幽閉をされてその地で果てて居る。
幕末のころに土佐は色んな働きをするが、出来上がった明治維新の政権に加わることは無かった。
理由は良くは判らないが、俺が俺がと言って前に出て行った人たちが、当初のころは首相の首を取り換えて行ったが、その中に土佐は含まれていませんでした。
何か残してゆくと云う事が自分を残すのか、そのことを大事にして自分の名前は無くてもやろうとしたことが後に続いてくれればいいか、根本から違ってきます。
早稲田大学の建学の母といわれる小野梓と云う方も宿毛に出ている。
小松製作所の礎となった人も宿毛にいました、ほかにも随分います。
東京に行った人は私財を肥やすことなく後から来る人の面倒を見て行った。
今に至った時に振り変えれば驚くほどの人数が郷土から排出したことが歴史として残る事になる。
宇佐浜から万次郎は船出をして行って、遭難して最終的にはアメリカの捕鯨船に助けられましたが、遭難をしたときに5人いました。
その末裔が宇佐に暮らしています。
森田さんと云う漁師の方、船頭だった筆之丞の末裔です。
戻ってきたときに、自分たちが見聞した事を一切口外してはならんと厳命されて、自分の郷里に暮らして行った。
筆之丞は一切云わなかった、直系の森田家には筆之丞からの言い伝えがほとんど残っていない。
万次郎は江戸で一市井の人間として生涯を閉じます、筆之丞も同じです、家族にも伝えず生涯を閉じて居ます。
土佐人の一つの気風だと思っています。(日本人と云っていいと思います。)
今これを云っていいか悪いのかを、自分で考えて云うのはよそうと、あえて口をつぐむ事、わきまえて居る。
子供を社会が育てて行く、大事なことです。
女子中学生が誰に言われるでもなしに、(家庭で言われているとしか思えない)挨拶が出来て居る。
こういうことがここには育くまれています、このことは物凄く大事なことです。
女子中学生がこの地から出ていったときに挨拶が出来、可愛がられると思います。
今日本人はいろんなところで無言です、相手を意識していないのと同じことになります。
アメリカに行くと、一番強く感ずることはお互いに見ず知らずの人が言葉を交わすと云うことです。
礼儀正しいとか、愛想がいいとは断じて違っていると思います。
今アメリカは人を受け入れていいかどうかが報じられているが、多国籍の人が暮らしていて、お互いが相手に対して私はあなたに敵意を持っていません、貴方に害を与える人間ではありませんよと、そのことを相手に伝えるために「ハイ」「モーニング」を云うのです。
云われればお互いが心を開いてお互いに言葉が交わせる。
この町の中学生はそれをやっている、物凄く大事な事です。
日本はグローバル化を云っているが、英語学習だとかを思っているが言葉の前に相手に笑顔をむけて「こんにちわ」がいえるかどうか、大人が出来るかどうか、それがグローバル化の第一歩です。
大事なのは、「自由は土佐の山間から」と今はっきり言える事を後に残して行ってやることです。
その人がやろうとした志を受け止めて次代を担ってくれる子供たちにそれを申し送ってやることが一番大事だと思います。
当時私の廻りに怖い大人がいっぱいいました、そして大人がいろいろな技を持っていました。
大人になったら自分もそんな大人になりたいと思っていました。
宿毛にいた僧侶白明(はくみょう)さん、忠臣蔵の討ち入りの時に江戸の泉岳寺にいたということを去年知りました。
四十七士の4人をお世話して、懐紙に筆で遺墨を書き残してもらったもの4人分を持ち帰っています。
江戸と宿毛が繋がっていたんです。
大高源吾の筆で書き残されていますが、一気に時間を超えて討ち入りのあった12月14日に自分が運ばれてゆくような気がします。
郷土にはこういった歴史、文化、風俗、言葉、食べ物などいいものがあると、バトンを若い人につなげて行ってほしいと思います。