保阪正康(作家・評論家) ・昭和史を味わう 第17回太平洋戦争の日々(3)
兵士たちの姿
昭和史を語り継ごうと思うと、戦争が中心になり、軍事を勉強しないといけないと思って、軍事とはどういうものか、素人の眼から見て判り易く解説して行こうと思って研究してきた。
一般の人は一番下が二等兵、戦いの現場に立たされて苦労する。
大将は陸軍大学校をでたエリートが、軍の中で出世して行って辿り着くポスト、50代後半、60代で自分たちが戦争を指揮をする。
兵役の召集が来て一日目はお客様扱いだが、2日目からはガラッと変わって厳しい制裁、命令、軍隊内部の暴力を含めて、軍そのもののなかの一番下の階層に置かれる。
自分と言うものを全く出せなくなってしまう、それが兵隊教育でもあった。
考えずに、命令に従え、と言うのが兵隊教育だった。
昭和16年1月に陸軍大臣東条英機の名で軍内に受達した「戦陣訓」が有る。
昭和の軍隊の基本的な精神になっている。
捕虜にならない、玉砕 戦う以外になかったといわれる。
「戦陣訓」
序 本訓その1 本訓その2 本訓その3(二つに分かれていて、①戦陣の戒めが9条、②戦陣のたしなみ9条) むすび
日中戦争が始まってしまっていて、一生懸命戦わないとか、モラルの低下があり、兵隊教育を根本から立て直すという事で東条陸将時代に作られたと思う。
「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」 最も有名な一節。。
捕虜になってはいけない、死ぬまで戦え、一生懸命戦わなければ、家族、出身地の共同体が咎を受けるので、兵士たちにすれば自分だけではなく、家族、郷土の栄誉も傷つけるという事が有って捕虜に成れないという事だと思います。
軍事に反する事は全部つぶされてゆく、ヒューマニズム、戦争に対する大義的な意見等は全部つぶされる。
国家全体が総力戦で戦っているので兵士たちに要求されるものは、とりもなおさず国民全部に要求されるものであると言う風に形が段々変わってくる。(国民の心も縛る)
東条英機に対して不快感を持っている軍人もおり、石原莞爾は兵隊に対して読む必要が無いと言っていた。
戦陣訓の文章は最後に島崎藤村が直したといわれている。
軍は一般の招集兵と職業軍人に大きく分かれる。
職業軍人は13歳で幼年学校、18歳で士官学校、原隊に戻って将校の訓練を受けて、30歳前後にうける権利があって、海軍兵学校、陸軍兵学校等を出た人達。
連隊は郷土出身者で作られる。(郷土連隊同士を競わせる)
アメリカの軍隊はある時間内は階級を守るが、それ以外はかなり個人と個人が会話するが、日本の軍隊は24時間階級の差がずーっと続く。
日本は100%個人の自由が無い。
日本では精神力で戦え、と言う様なことが有るので精神力至上主義になってゆく。
昭和10年代の日本の軍人は精神力を説く人が偉くなっていった。
東条英機は宝生流ワキ方の能楽師として盛岡藩に仕えた家系の家に生まれた。
父親は明治維新にかかわって、南部から東京に出てきて、陸軍教導団(下士官の養成所)に入って西南戦争に参加活躍する。
父親は陸軍大学第一期生で成績は一番で卒業する事になる。
父親は出世が遅れ、大将になれなかったことを、東条英機は長州閥に睨まれたことが原因と終生考えていたという。
従って東条英機も長州閥を嫌っていた。
東条は精神論を繰り返し繰り返し偉くなるたびに言う。
「戦争というものは負けたと思った時が負けだ」という、「そうではなく負けたと思った時は負けるので、常に精神力では常に優位にいる、勝つという気持ちでいないと駄目だ」、というが、これは矛盾したことである。
国家の責任者が戦争の時に、もっと客観的にものを言わなくてはいけないのではないか。
サイパンが落ちた時(昭和19年7月)、その後結局、東条は失脚するが「なーにこれぐらいの事、大したことはない、泥水がちょっとひっかけられたようなものだ」と、強気のことを言っていた。
昭和19年7月サイパン島の陥落、3万人が玉砕、民間人が2万5000人いる中で1万人が死亡する。
戦陣訓が現実化した。
サイパン陥落は日本本土への爆撃が日常的になる起点と成る。
戦陣訓は死を強要する、戦陣訓が持っている死生観は日本の文化、伝統に反すると思います。
兵士たちの生命を国家が預かったわけなので、それに対して国家は責任をもたないといけないが、責任感が希薄で自由に扱っていいんだと、言う形で戦争を考えたのではないかと思う。
2015年6月7日日曜日
2015年6月6日土曜日
上野 誠(奈良大学教授) ・”聖典”として読む万葉集
上野 誠(奈良大学教授) ・”聖典”として読む万葉集
万葉集の研究に30年以上に渡って取り組んでいる 奈良大学教授上野さん、54歳のお話です。
万葉集は今から1300年ほど前の奈良時代に編纂された歌集です。
天皇や貴族、宮中の役人だけでなく広く一般の人々にも詠まれた歌、4500首余りが20卷に納められています。
上野さんの研究の特徴は歌に詠まれた場所に必ず赴いて、現地の様子を細かく観察する事です。
授業でも学生達を現地に連れ出します。
独自の研究方法で、万葉集と取り組んできた上野さんが最近思う様になったことは、万葉集は仏典や聖書と並ぶ聖典ではないかと言う事です。
万葉集を読むことで心の奥の何かが、引き出され歴史の中に生きている自分を認識させてくれると言うのです。万葉集の真髄について伺います。
自分が面白いと思わないと、古典研究でもそうですが、未熟なのではないかと思う。
「倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる 倭しうるはし」
(倭は国の良いところである。 青垣山がかさなっている、倭は良いところである。)
盆地で住んでいるところ、周りは青い垣根の様なところ。
東は春日山、龍王山の峯、三輪山、西は生駒山、平群、二上山、葛城山があり守られているような感覚、その場所に立って思った時に初めて理解に行きついたと思う。
その場所に行って感ずると言う様な学習と言うところまで行きついた時に初めて楽しいと思う。
実感するレベルまで行きつかせると言うか、そういうところまで行かないと嘘ではないかと、私の古典感、研究感です。
聖典と言ってしまうと堅苦しくなるが、万葉集と言うのは生活カタログ、思い出アルバムかもしれない。
その時に思った事を撮ったと言う事で考えればスナップ写真と言えるかもしれない。
そのものを読むことによって、自分自身の持っている感覚、心の奥に在る感覚を再び意識する事が出来る。
恋、高い理想等、それを読むことによって自分自身の心に在る何かが引き出されてくるという、むしろ聖典とはそういうものだと勝手に思っている。
仏教経典を読めば釈迦の言動はいったいどうしてこういう事をしたんだろうと、そういう風になりたいと思う瞬間が生まれてくると思う。
こういう風になりたい、こういう恋をしたい、こういう様な生き方をしたいと言う瞬間があるが、万葉集が聖典になった瞬間だと思う。
母親は「ほととぎす」の同人、親戚の多くも俳句、文学に携わっていると言う環境で育ちました。
中学校時代から歴史学者か考古学になりたいと思って、中学2年の時に、考古学者の先生のところに訪ねて行ったが、あんまり勉強しすぎたら賢く成り過ぎて、お金にならない学問をしたくなくなるからあまり勉強しないのがコツだと言われた。
それを真面目に守った結果、大学から通知が来て、駄目だった。
一番歴史学や考古学の連携が進んだ文学が万葉集研究で、研究だけで1000年の歴史がある。
3大古典学が有るとすれば仏教の古典学、聖書の古典研究、もう一つ上げろと言われれば万葉集の研究で、歌の方でもいいかと思った。
遣新羅使の旅程は、続日本紀に書いてあるが、万葉集には その人の恋人や奥さんが送るときの歌が有る。
「君が行く海辺の宿に霧立たば我が立ち嘆く息と知りませ」
(貴方が行く海辺の宿にもし霧が立ったならば、わたしがこの平城京でたち嘆いてる息だと思って私の事を思い出してください)
歌に接した時に、生きて帰るかどうか判らない旅人を送る言葉だと思った時に、歴史資料と言うものの中に心を感ずる。
こっちの方がより人間に近いぞと思った瞬間が有って、勉強に対してより前向きになった。
明日香の河原の集落を歩いていたら、神社を囲んだ塀が有るが、一本の木が生えていて木にお賽銭をあげている人がいた。
ここは昔お社が有ったが火事で燃えてしまって、再建しようと寄付を集めたりしていたが、榊の木が生えてきて、そのままかこいだけ残して、そこを拝むように変えたと言う。
「泣沢(なきさわ)の 神社(もり)にて神酒(みわ)据え 祈れども 我が大君は 高日(たかひ)知らしぬ」
泣沢の神社にお酒をお供えする 祈る
泣沢の神社(もり)は、泉の神様で当時はこんこんと湧水がわき出て、生命の象徴。
神社は森が有って泉が有ってこんこんと水がわき出ている。
親族が事切れた、事切れるかもしれない時に泉に対して生命の復活を祈る。
我が大君の復活はありえなかった、死をとどめることはできなかったという風に歌っている。
泉に手を合わせることが有った。 泉の信仰、もりの信仰
その場所に神が宿ると言う、主体的で有って、自分自身が見つけてゆく小さな神。
多神教 沢山神がいる事ではなく、とめどもなく神が生まれることだと思う。
その時には泉が神だった。
説明できないものを表現するのが歌、論理を越えたものを感覚で伝える。
香具山
「いにしえの 事は知らぬを われ見ても 久しくなりぬ 天の香具山」
(俺は昔の事はよくわからない そんな俺でも この場所は懐かしい感覚が有って大切な場所であると言う事が判る)
ドイツを旅していて、素晴らしい大聖堂がある町に列車が止まって、途中下車 「コーレン」駅と読めた。
歴史的に凄い場所だと思って大感激をして帰ってきた。
或る人に「コーレン」という町が有って、素晴らしいところだと行った。
綴りを書いてほしいといわれて書いたら、それは「ケルン」だった、ケルン大聖堂だった。
「いにしえの 事は知らぬを われ見ても 久しくなりぬ 天の香具山」が頭にひらめいた。
絵でも仏像も同様で、有名な絵、重要文化財、国宝だから尊いのか、指定が受けてない物の価値の見る人の眼を曇らしてしまう事が有ると思う。
原文で書かれているものをどういう風に正しく訳せるか、言葉を正しく置き換える、しかし正しく心を置き換えると言う事になれば、単に正しく訳せば済むか。
「こいのやっこのつかみかかりて」
恋の奴めが掴みかかってくる と訳すが 感覚で言うと「つかみかかってきやあがる」です。
「どこのどいつの恋心が俺の心につかみかかってきやがったんだ」と私は訳す。
古典学者と言えども、今に無関心であるという事は、古典を学ぶ本当の意味がわかっていないと思う。
最終的に解釈するのは自分、最終的に感ずるのは自分で有り、そのために自分はどういう風にしたらいいのか、常に思って常に自分を磨いていかないとだめだと思う。
60代になれば全訳注を作って完成させたい。
社会と作家と作品とをどういう回路で結ばれているか、生活実感が無いところに文学の感動も無い
と言うのが私の立場です。
古代の役人の生活が判らないと、役人の文学は判らない、古代の旅の仕方が判らないと旅の文学は判らない、古代の結婚の在り方が判らないと古代の結婚の歌は判らない。
幸い木簡発掘の事例が増え続けていて、それを最大限に取り入れて、見える様に研究していくというのはわたし自身が目指しているところです。
私の実家の家が取り壊されることになってしまったが、
「采女の 袖吹きかえす 明日香風 都を遠み いたずらに吹く」
明日香から藤原に都が移った時に、どういう風な感慨を持ったか?
(昔この場所に采女という女官たちがいて、風が吹いたら袖が舞いがっていた。
都が藤原に移ってしまったので遠くなったので,いまでは風だけが無駄に吹きすぎている。)
過去へのいとおしみの気持ち。
自分の心の中に在る一つの感情が、万葉集の歌によって形作られるという事が有る。
万葉集の研究に30年以上に渡って取り組んでいる 奈良大学教授上野さん、54歳のお話です。
万葉集は今から1300年ほど前の奈良時代に編纂された歌集です。
天皇や貴族、宮中の役人だけでなく広く一般の人々にも詠まれた歌、4500首余りが20卷に納められています。
上野さんの研究の特徴は歌に詠まれた場所に必ず赴いて、現地の様子を細かく観察する事です。
授業でも学生達を現地に連れ出します。
独自の研究方法で、万葉集と取り組んできた上野さんが最近思う様になったことは、万葉集は仏典や聖書と並ぶ聖典ではないかと言う事です。
万葉集を読むことで心の奥の何かが、引き出され歴史の中に生きている自分を認識させてくれると言うのです。万葉集の真髄について伺います。
自分が面白いと思わないと、古典研究でもそうですが、未熟なのではないかと思う。
「倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる 倭しうるはし」
(倭は国の良いところである。 青垣山がかさなっている、倭は良いところである。)
盆地で住んでいるところ、周りは青い垣根の様なところ。
東は春日山、龍王山の峯、三輪山、西は生駒山、平群、二上山、葛城山があり守られているような感覚、その場所に立って思った時に初めて理解に行きついたと思う。
その場所に行って感ずると言う様な学習と言うところまで行きついた時に初めて楽しいと思う。
実感するレベルまで行きつかせると言うか、そういうところまで行かないと嘘ではないかと、私の古典感、研究感です。
聖典と言ってしまうと堅苦しくなるが、万葉集と言うのは生活カタログ、思い出アルバムかもしれない。
その時に思った事を撮ったと言う事で考えればスナップ写真と言えるかもしれない。
そのものを読むことによって、自分自身の持っている感覚、心の奥に在る感覚を再び意識する事が出来る。
恋、高い理想等、それを読むことによって自分自身の心に在る何かが引き出されてくるという、むしろ聖典とはそういうものだと勝手に思っている。
仏教経典を読めば釈迦の言動はいったいどうしてこういう事をしたんだろうと、そういう風になりたいと思う瞬間が生まれてくると思う。
こういう風になりたい、こういう恋をしたい、こういう様な生き方をしたいと言う瞬間があるが、万葉集が聖典になった瞬間だと思う。
母親は「ほととぎす」の同人、親戚の多くも俳句、文学に携わっていると言う環境で育ちました。
中学校時代から歴史学者か考古学になりたいと思って、中学2年の時に、考古学者の先生のところに訪ねて行ったが、あんまり勉強しすぎたら賢く成り過ぎて、お金にならない学問をしたくなくなるからあまり勉強しないのがコツだと言われた。
それを真面目に守った結果、大学から通知が来て、駄目だった。
一番歴史学や考古学の連携が進んだ文学が万葉集研究で、研究だけで1000年の歴史がある。
3大古典学が有るとすれば仏教の古典学、聖書の古典研究、もう一つ上げろと言われれば万葉集の研究で、歌の方でもいいかと思った。
遣新羅使の旅程は、続日本紀に書いてあるが、万葉集には その人の恋人や奥さんが送るときの歌が有る。
「君が行く海辺の宿に霧立たば我が立ち嘆く息と知りませ」
(貴方が行く海辺の宿にもし霧が立ったならば、わたしがこの平城京でたち嘆いてる息だと思って私の事を思い出してください)
歌に接した時に、生きて帰るかどうか判らない旅人を送る言葉だと思った時に、歴史資料と言うものの中に心を感ずる。
こっちの方がより人間に近いぞと思った瞬間が有って、勉強に対してより前向きになった。
明日香の河原の集落を歩いていたら、神社を囲んだ塀が有るが、一本の木が生えていて木にお賽銭をあげている人がいた。
ここは昔お社が有ったが火事で燃えてしまって、再建しようと寄付を集めたりしていたが、榊の木が生えてきて、そのままかこいだけ残して、そこを拝むように変えたと言う。
「泣沢(なきさわ)の 神社(もり)にて神酒(みわ)据え 祈れども 我が大君は 高日(たかひ)知らしぬ」
泣沢の神社にお酒をお供えする 祈る
泣沢の神社(もり)は、泉の神様で当時はこんこんと湧水がわき出て、生命の象徴。
神社は森が有って泉が有ってこんこんと水がわき出ている。
親族が事切れた、事切れるかもしれない時に泉に対して生命の復活を祈る。
我が大君の復活はありえなかった、死をとどめることはできなかったという風に歌っている。
泉に手を合わせることが有った。 泉の信仰、もりの信仰
その場所に神が宿ると言う、主体的で有って、自分自身が見つけてゆく小さな神。
多神教 沢山神がいる事ではなく、とめどもなく神が生まれることだと思う。
その時には泉が神だった。
説明できないものを表現するのが歌、論理を越えたものを感覚で伝える。
香具山
「いにしえの 事は知らぬを われ見ても 久しくなりぬ 天の香具山」
(俺は昔の事はよくわからない そんな俺でも この場所は懐かしい感覚が有って大切な場所であると言う事が判る)
ドイツを旅していて、素晴らしい大聖堂がある町に列車が止まって、途中下車 「コーレン」駅と読めた。
歴史的に凄い場所だと思って大感激をして帰ってきた。
或る人に「コーレン」という町が有って、素晴らしいところだと行った。
綴りを書いてほしいといわれて書いたら、それは「ケルン」だった、ケルン大聖堂だった。
「いにしえの 事は知らぬを われ見ても 久しくなりぬ 天の香具山」が頭にひらめいた。
絵でも仏像も同様で、有名な絵、重要文化財、国宝だから尊いのか、指定が受けてない物の価値の見る人の眼を曇らしてしまう事が有ると思う。
原文で書かれているものをどういう風に正しく訳せるか、言葉を正しく置き換える、しかし正しく心を置き換えると言う事になれば、単に正しく訳せば済むか。
「こいのやっこのつかみかかりて」
恋の奴めが掴みかかってくる と訳すが 感覚で言うと「つかみかかってきやあがる」です。
「どこのどいつの恋心が俺の心につかみかかってきやがったんだ」と私は訳す。
古典学者と言えども、今に無関心であるという事は、古典を学ぶ本当の意味がわかっていないと思う。
最終的に解釈するのは自分、最終的に感ずるのは自分で有り、そのために自分はどういう風にしたらいいのか、常に思って常に自分を磨いていかないとだめだと思う。
60代になれば全訳注を作って完成させたい。
社会と作家と作品とをどういう回路で結ばれているか、生活実感が無いところに文学の感動も無い
と言うのが私の立場です。
古代の役人の生活が判らないと、役人の文学は判らない、古代の旅の仕方が判らないと旅の文学は判らない、古代の結婚の在り方が判らないと古代の結婚の歌は判らない。
幸い木簡発掘の事例が増え続けていて、それを最大限に取り入れて、見える様に研究していくというのはわたし自身が目指しているところです。
私の実家の家が取り壊されることになってしまったが、
「采女の 袖吹きかえす 明日香風 都を遠み いたずらに吹く」
明日香から藤原に都が移った時に、どういう風な感慨を持ったか?
(昔この場所に采女という女官たちがいて、風が吹いたら袖が舞いがっていた。
都が藤原に移ってしまったので遠くなったので,いまでは風だけが無駄に吹きすぎている。)
過去へのいとおしみの気持ち。
自分の心の中に在る一つの感情が、万葉集の歌によって形作られるという事が有る。
2015年6月5日金曜日
増永迪男(福井山岳会・会長) ・ふるさと「福井」の山を歩き尽くす
増永迪男(福井山岳会・会長、山岳エッセイスト) ・ふるさと「福井」の山を歩き尽くす
81歳、13歳の時に白山の自然の美しさに感動して以来、山の魅力に取り憑かれ、広島大学に進学後は、山岳部で活躍しました。
34歳でアフガニスタンの標高6000mを越えるヤジュンに登りました。
その後国内、特に福井の山々を歩いています。
もう一つの顔が山岳エッセイスト、福井の野鳥、野の花などを幅広く観察し、地元紙聞等で執筆して本も出版されています。
平成12年には福井県文化賞を受賞されました。
NHKラジオでは永年に渡り、故郷福井の自然の魅力や話題を電話リポートで伝えています。
福井市の南の生まれ。 裏山(八幡山)が有り保育園行く前に、一人で遊んでいた記憶があり、藪の中を平気で歩き回った。
代々続く造り酒屋 北陸道に面していて少し作っていた。
小学校3年の時、先生が1/5万の地図を遠足の前に、地図の見方、等高線など教えてくれた。
中学2年の時に白山に行ったのが最初だった。(昭和22年)
当時5日間かけて往復し、植物採集をした。
白山は数え切れないほど登ったが、其時の感動が一番だった。
中学3年生で福井地震が有り、私の家も酒蔵も潰れて、酒が200石あまり流れた。(その年は山登りは出来なかった)
高校では山岳部に入って、それからずーっと山ばっかりだった。
高校3年では受験の年だったが、1年間で65日山登りしていた。
広島大学の工学部に進む。
国立大学で醸造学科があるのが、大阪大学と広島大学(山岳部が有る事を確認)だけだった。
大学では基礎体力が違っていて吃驚した。
夏山合宿で当時2週間行くが、主食は米で、米を一食2合一日6合食べたので、1斗5升ぐらい米だけで担いで、そのほかにテント、ザイル、登山用品等を担ぐので30kg、40kg担いで行った。
OBはいまでも交流が有る。
34歳でアフガニスタンの標高6000mを越えるヤジュンに登りました。
第3次中東戦争が起きて、イスラム諸国が緊張状態になり、ネパール、西パキスタン等が海外登山隊をシャットアウトした。
アフガニスタンに着目して、6024mの未登鋒があることが判り、行く事に決定する。
登山隊を受け入れる習慣、状況のない国だったので、山に行くまでが大変だった。
シェルパーもいなかった。
福井県の山をどの程度知っているかなあと思った時に、何にも知らなかった事に気付いた。
福井の地方版に毎週一回山の事を書いてほしいとの要望が有り、山に対する自分の気持ち、山を紹介しながら、山の歴史などをテーマに書き続けることになる。
福井には1000mを越える山が110ぐらいあり、藪が多い。
幼少時代の藪に対する懐かしさがあり、34山が登山道をつかった山で、それ以外の120ぐらいは登山道を使わない山で、登って「福井の山 150」と言う本を出版する。
一人で歩いていて登山道が無くても、赤い糸が連なっている様な感じで、安心感はある。
根本的に卑怯な人間だと思っていて、本当に危険なことはしていないと思う。
岩登り、雪渓、クレバスで落ちたりするが、決定的な危ないことはしていないと思う。
高校1年生の冬、3年生2人、リーダーだった社会人の歯医者さん1人、取立山のスキーツアーで3人が亡くなってしまった。
山で13人亡くなってしまいました。
妻も山をやっていましたが結婚後、子供が3人いましたが、昭和49年妻が八ヶ岳に一人で行って、八ヶ岳で亡くなりました。
残雪で道をはずして、谷の方に回っていって大きな滝で落ちて、下の雪渓で亡くなった。
妻の遭難の2年後、広島大学の山岳部の後輩が3月に針ノ木岳の大雪渓のところで雪崩を起こして、一行6人中4人が亡くなった。
捜索の指揮を取ることになり、鉄の棒を刺して探していくが、最初の一人は直ぐ発見できたが、残りの3人は40人体制で1日掛かって掘りだしました。
その後はちょっと変わった、厳しい条件が現れたときには、山に負けまいぞと言う気持ちが表れてきた。
4人の追悼登山を父兄とともに30年間行った。
その内の一人は、息子さんが亡くなってから登山を始め、親しくなった。
「山に行くと息子と話をしている様な気持になるんですよ。」とおっしゃって、この言葉は忘れられない。(一人で行くと、そういう気持ちは分かります)
月に2回のペースで行っています。
心筋梗塞になってから、妻(現在の妻)から厳しい指導が有り、一人ではだめと、誰と行くか申告してから行くようにしている。
感動は、冬は感動します。
吹雪いているが雲が抜けると、すぱーっと見える瞬間があるが、その時は本当に吃驚します。
4月末 若狭の山は鹿が一杯いて。下草を全部食べてしまって、大きな木だけが残っていて、一斉に芽吹いて、それが綺麗で、突然山の木が示し合せたように新緑になり、感激しました。
夏は沢登りに行く、進歩して沢用の靴が有り、恐かったところが怖く無くなり、沢登りが進歩しました。
沢登りは観察しながら登らないといけない、最初の人をよく観察して、どういう風に登っていくかをしっかりと見る。
秋はキノコ採りに夢中になっています。
木くい虫が楢の木を枯らしてしまって、その楢の木に必ずと言っていいほどなめこが生えるので、チームを組んでいきます。
楽しさの根本は、知らないところに行くと言うのが一番、一歩ごとが発見、一歩ごとに出会いなので楽しい。
山の経験は非日常的な経験で、鮮明には残っているが、記憶は一こま一こまなのでそれを大事にしている。
最初はガイドブックに従って山登りをして、段々その方でしか味わえない感動が有るはずで、そういう感動に合いそうな山を続けていくと、より深くなり、自分に向いた山が発見できて、楽しめると思う。
81歳、13歳の時に白山の自然の美しさに感動して以来、山の魅力に取り憑かれ、広島大学に進学後は、山岳部で活躍しました。
34歳でアフガニスタンの標高6000mを越えるヤジュンに登りました。
その後国内、特に福井の山々を歩いています。
もう一つの顔が山岳エッセイスト、福井の野鳥、野の花などを幅広く観察し、地元紙聞等で執筆して本も出版されています。
平成12年には福井県文化賞を受賞されました。
NHKラジオでは永年に渡り、故郷福井の自然の魅力や話題を電話リポートで伝えています。
福井市の南の生まれ。 裏山(八幡山)が有り保育園行く前に、一人で遊んでいた記憶があり、藪の中を平気で歩き回った。
代々続く造り酒屋 北陸道に面していて少し作っていた。
小学校3年の時、先生が1/5万の地図を遠足の前に、地図の見方、等高線など教えてくれた。
中学2年の時に白山に行ったのが最初だった。(昭和22年)
当時5日間かけて往復し、植物採集をした。
白山は数え切れないほど登ったが、其時の感動が一番だった。
中学3年生で福井地震が有り、私の家も酒蔵も潰れて、酒が200石あまり流れた。(その年は山登りは出来なかった)
高校では山岳部に入って、それからずーっと山ばっかりだった。
高校3年では受験の年だったが、1年間で65日山登りしていた。
広島大学の工学部に進む。
国立大学で醸造学科があるのが、大阪大学と広島大学(山岳部が有る事を確認)だけだった。
大学では基礎体力が違っていて吃驚した。
夏山合宿で当時2週間行くが、主食は米で、米を一食2合一日6合食べたので、1斗5升ぐらい米だけで担いで、そのほかにテント、ザイル、登山用品等を担ぐので30kg、40kg担いで行った。
OBはいまでも交流が有る。
34歳でアフガニスタンの標高6000mを越えるヤジュンに登りました。
第3次中東戦争が起きて、イスラム諸国が緊張状態になり、ネパール、西パキスタン等が海外登山隊をシャットアウトした。
アフガニスタンに着目して、6024mの未登鋒があることが判り、行く事に決定する。
登山隊を受け入れる習慣、状況のない国だったので、山に行くまでが大変だった。
シェルパーもいなかった。
福井県の山をどの程度知っているかなあと思った時に、何にも知らなかった事に気付いた。
福井の地方版に毎週一回山の事を書いてほしいとの要望が有り、山に対する自分の気持ち、山を紹介しながら、山の歴史などをテーマに書き続けることになる。
福井には1000mを越える山が110ぐらいあり、藪が多い。
幼少時代の藪に対する懐かしさがあり、34山が登山道をつかった山で、それ以外の120ぐらいは登山道を使わない山で、登って「福井の山 150」と言う本を出版する。
一人で歩いていて登山道が無くても、赤い糸が連なっている様な感じで、安心感はある。
根本的に卑怯な人間だと思っていて、本当に危険なことはしていないと思う。
岩登り、雪渓、クレバスで落ちたりするが、決定的な危ないことはしていないと思う。
高校1年生の冬、3年生2人、リーダーだった社会人の歯医者さん1人、取立山のスキーツアーで3人が亡くなってしまった。
山で13人亡くなってしまいました。
妻も山をやっていましたが結婚後、子供が3人いましたが、昭和49年妻が八ヶ岳に一人で行って、八ヶ岳で亡くなりました。
残雪で道をはずして、谷の方に回っていって大きな滝で落ちて、下の雪渓で亡くなった。
妻の遭難の2年後、広島大学の山岳部の後輩が3月に針ノ木岳の大雪渓のところで雪崩を起こして、一行6人中4人が亡くなった。
捜索の指揮を取ることになり、鉄の棒を刺して探していくが、最初の一人は直ぐ発見できたが、残りの3人は40人体制で1日掛かって掘りだしました。
その後はちょっと変わった、厳しい条件が現れたときには、山に負けまいぞと言う気持ちが表れてきた。
4人の追悼登山を父兄とともに30年間行った。
その内の一人は、息子さんが亡くなってから登山を始め、親しくなった。
「山に行くと息子と話をしている様な気持になるんですよ。」とおっしゃって、この言葉は忘れられない。(一人で行くと、そういう気持ちは分かります)
月に2回のペースで行っています。
心筋梗塞になってから、妻(現在の妻)から厳しい指導が有り、一人ではだめと、誰と行くか申告してから行くようにしている。
感動は、冬は感動します。
吹雪いているが雲が抜けると、すぱーっと見える瞬間があるが、その時は本当に吃驚します。
4月末 若狭の山は鹿が一杯いて。下草を全部食べてしまって、大きな木だけが残っていて、一斉に芽吹いて、それが綺麗で、突然山の木が示し合せたように新緑になり、感激しました。
夏は沢登りに行く、進歩して沢用の靴が有り、恐かったところが怖く無くなり、沢登りが進歩しました。
沢登りは観察しながら登らないといけない、最初の人をよく観察して、どういう風に登っていくかをしっかりと見る。
秋はキノコ採りに夢中になっています。
木くい虫が楢の木を枯らしてしまって、その楢の木に必ずと言っていいほどなめこが生えるので、チームを組んでいきます。
楽しさの根本は、知らないところに行くと言うのが一番、一歩ごとが発見、一歩ごとに出会いなので楽しい。
山の経験は非日常的な経験で、鮮明には残っているが、記憶は一こま一こまなのでそれを大事にしている。
最初はガイドブックに従って山登りをして、段々その方でしか味わえない感動が有るはずで、そういう感動に合いそうな山を続けていくと、より深くなり、自分に向いた山が発見できて、楽しめると思う。
2015年6月4日木曜日
佐藤愛子(作家) ・91歳 書き続け、たどり着いた人生の晩鐘(2)
佐藤愛子(作家) ・91歳 書き続け、たどり着いた人生の晩鐘(2)
作家の田畑麦彦さんと結婚、娘も生まれ作家としてこれからと言う時に、田畑さんが興した会社が倒産して膨大な借金を背負う事になります。
夫はこれ以上迷惑をかけないために、形だけと言い、佐藤さんと離婚、しかし別の女性と再婚したことが判ります。
佐藤さんは元夫の借金を背負い、一人で娘を育て生きていきます。
生きるためにひたすら続けた40歳代から伺います。
借金返済は?
戦場の様なものですから、辛い思いをしたのは娘だったとしみじみ思います。
倒産したのは娘が小学校2年でした。
辛い時戦争当時の歌を歌った、私の応援歌みたいなもの、愚痴みたいなもの。
「どこまで続く、ぬかるみぞ・・・・」
娘も修羅場に巻き込まれたわけで、生きてゆく上での強さになってくれればと、それだけを祈るような思いだけです。
苦労話をして泣いたりする人は割にいるが、それと対極のところにいるわけです、何でもおかしくしてしまう、生きるための佐藤家の知恵だと思います。
或るとき夫にバケツの水をぶっかけて、掴みかかってくるだろうと思って階段を上って行って「恥しらず」と叫んだら、「何だよう靴の中に水が入ってしまって脱げないじゃないか」と下で言っているが、それはおかしいでしょう、悲劇を喜劇に変えてゆく、佐藤家の血ですね。
3/4は父の激情、1/4は母の理性を受け継いでいるのではないかと思う。
母は評論家タイプだった、アメリカとの戦争を始めた時に、父は日本は勝つに決まっていると言っていたが、母は顔をしかめて、負けるにきまっていると、地図を見れば判ると(国土の大きさの差、国力)、戦争をして勝てる訳が無いと言っていた。
何とか小説を書けてこれたのは、父と母のお陰だったと、今は思える様になりました。
小説を書く上に必要な感性は父から貰ったと思います。
「晩鐘」の中に出てきますが、辰彦の2人の友達が家を抵当に入れさせてくれて、そして倒産して、其人の家は取られてしまうが、何とかして救わなければいけないと、これは父から受けた考え方だと思います。
無謀なことで、1000万~2000万円の肩代わりの借金をしょっていて、その上に金貸しのところに行って、1500万円借りてきて、その二人を助けなくてはいけない、直木賞を貰う前で返せることが出来るわけないが行動した、これは父の影響です。
二人の家庭には子供がいて、そうせずにはいられないと言う衝動だけです、理屈ではない。
この私の性格には、母は恐ろしくて一緒にいられないと言う事でした。
父はすべて激情、恋も怒りも、人を助けるときにも、後先を考えずに行動する。(私の中にもある)
そのことを書いて直木賞を貰えたわけで、だから借金を返せるようになったわけで、我ながらぞーっとします。
文壇付き合いはしていない、出来ない。
特殊な価値観の持ち主だと思う、相手がそれを判ってくれれば深く付き合えるが、判らないだろうなあと言う気持ちがいつもあるので、一人でいる方が楽だと言う方に成ってしまう。
私はこう生きると言う事は言えるが、こうしなさいとは言えない。
孤独な老人は核家族になって、増えてきたと思う。
大家族のマイナスがあったので、それを無くそうと言う事だと思うが、物事は一つよければ一つ悪いことが必ず伴うので、どっちの悪さを選ぶことだと思う。
かつて介護は身内の問題だったが、核家族になって社会の問題になっている。
歳を取ってすることが有ると言う人は幸せだと思います。
いなかの生活は年寄りでもすることがいろいろあり元気だが、都会の生活はすることが無い、だから孤独と向き合う、まぎれるものが無い。
大家族の時には年寄りの役割が有ったが、今は孤独の問題がある。
仕事が一段落して、のんびりしてくださいと言われるが、私はのんびりする事はどうする事か判らない人生を過ごしてきたので、どうする事か教えてもらわないと判らない状態だった。
最近はすることが無くて、TVも見る気が無いし、段々鬱病の様になって来て、人間働く様に出来ているんだなと言う事がつくづく判ってきた。
定年退職した人は鬱病になったりするが、生活のリズムが無くなるから。
リズムを取り戻さないといけないと思っていたら、「晩鐘」の出版後のインタビュー等が一日おきにあるような生活が続いて危機を脱した。
のんびりは生きている実感が無い。
苦労から逃げないで、かく生きたと言う事だけです。
逃げないでいると力が付くんですね、逃げていると力がつかない。
倒産した時に、家は取られるし、同窓会があるが行く気がしなかった、どうしようかと思ったが、無理してでも行きなさいと通っていた整体の先生から言われて、行く事にした。
夫が倒産したと言うのによく来られるねと言われた。
(釧路地震情報)
作家の田畑麦彦さんと結婚、娘も生まれ作家としてこれからと言う時に、田畑さんが興した会社が倒産して膨大な借金を背負う事になります。
夫はこれ以上迷惑をかけないために、形だけと言い、佐藤さんと離婚、しかし別の女性と再婚したことが判ります。
佐藤さんは元夫の借金を背負い、一人で娘を育て生きていきます。
生きるためにひたすら続けた40歳代から伺います。
借金返済は?
戦場の様なものですから、辛い思いをしたのは娘だったとしみじみ思います。
倒産したのは娘が小学校2年でした。
辛い時戦争当時の歌を歌った、私の応援歌みたいなもの、愚痴みたいなもの。
「どこまで続く、ぬかるみぞ・・・・」
娘も修羅場に巻き込まれたわけで、生きてゆく上での強さになってくれればと、それだけを祈るような思いだけです。
苦労話をして泣いたりする人は割にいるが、それと対極のところにいるわけです、何でもおかしくしてしまう、生きるための佐藤家の知恵だと思います。
或るとき夫にバケツの水をぶっかけて、掴みかかってくるだろうと思って階段を上って行って「恥しらず」と叫んだら、「何だよう靴の中に水が入ってしまって脱げないじゃないか」と下で言っているが、それはおかしいでしょう、悲劇を喜劇に変えてゆく、佐藤家の血ですね。
3/4は父の激情、1/4は母の理性を受け継いでいるのではないかと思う。
母は評論家タイプだった、アメリカとの戦争を始めた時に、父は日本は勝つに決まっていると言っていたが、母は顔をしかめて、負けるにきまっていると、地図を見れば判ると(国土の大きさの差、国力)、戦争をして勝てる訳が無いと言っていた。
何とか小説を書けてこれたのは、父と母のお陰だったと、今は思える様になりました。
小説を書く上に必要な感性は父から貰ったと思います。
「晩鐘」の中に出てきますが、辰彦の2人の友達が家を抵当に入れさせてくれて、そして倒産して、其人の家は取られてしまうが、何とかして救わなければいけないと、これは父から受けた考え方だと思います。
無謀なことで、1000万~2000万円の肩代わりの借金をしょっていて、その上に金貸しのところに行って、1500万円借りてきて、その二人を助けなくてはいけない、直木賞を貰う前で返せることが出来るわけないが行動した、これは父の影響です。
二人の家庭には子供がいて、そうせずにはいられないと言う衝動だけです、理屈ではない。
この私の性格には、母は恐ろしくて一緒にいられないと言う事でした。
父はすべて激情、恋も怒りも、人を助けるときにも、後先を考えずに行動する。(私の中にもある)
そのことを書いて直木賞を貰えたわけで、だから借金を返せるようになったわけで、我ながらぞーっとします。
文壇付き合いはしていない、出来ない。
特殊な価値観の持ち主だと思う、相手がそれを判ってくれれば深く付き合えるが、判らないだろうなあと言う気持ちがいつもあるので、一人でいる方が楽だと言う方に成ってしまう。
私はこう生きると言う事は言えるが、こうしなさいとは言えない。
孤独な老人は核家族になって、増えてきたと思う。
大家族のマイナスがあったので、それを無くそうと言う事だと思うが、物事は一つよければ一つ悪いことが必ず伴うので、どっちの悪さを選ぶことだと思う。
かつて介護は身内の問題だったが、核家族になって社会の問題になっている。
歳を取ってすることが有ると言う人は幸せだと思います。
いなかの生活は年寄りでもすることがいろいろあり元気だが、都会の生活はすることが無い、だから孤独と向き合う、まぎれるものが無い。
大家族の時には年寄りの役割が有ったが、今は孤独の問題がある。
仕事が一段落して、のんびりしてくださいと言われるが、私はのんびりする事はどうする事か判らない人生を過ごしてきたので、どうする事か教えてもらわないと判らない状態だった。
最近はすることが無くて、TVも見る気が無いし、段々鬱病の様になって来て、人間働く様に出来ているんだなと言う事がつくづく判ってきた。
定年退職した人は鬱病になったりするが、生活のリズムが無くなるから。
リズムを取り戻さないといけないと思っていたら、「晩鐘」の出版後のインタビュー等が一日おきにあるような生活が続いて危機を脱した。
のんびりは生きている実感が無い。
苦労から逃げないで、かく生きたと言う事だけです。
逃げないでいると力が付くんですね、逃げていると力がつかない。
倒産した時に、家は取られるし、同窓会があるが行く気がしなかった、どうしようかと思ったが、無理してでも行きなさいと通っていた整体の先生から言われて、行く事にした。
夫が倒産したと言うのによく来られるねと言われた。
(釧路地震情報)
2015年6月3日水曜日
佐藤愛子(作家) ・91歳 書き続け、たどり着いた人生の晩鐘(1)
佐藤愛子(作家) ・91歳 書き続け、たどり着いた人生の晩鐘(1)
昭和44年「戦いすんで日が暮れて」で直木賞を受賞、平成12年には12年間かけて取り組んだ3400枚もの長編小説「血脈」で菊池寛賞を受賞されています。
昨年12月「晩鐘」を出版、この作品は45年前受賞した「戦いすんで日が暮れて」に連なる、かつて夫だった一人の男の姿を追求した小説で、90歳を超えて書き上げた円熟の小説と評判を呼んでいます。
88歳から「晩鐘」を書きはじめる。
50歳の時に貴方は90歳まで生きられると言われたが、その時は実感が無かったが、88歳になっても人生の終りに来ているとの自覚は無かったが、突然そのことを思い出して、あと2年しか生きられないと、愕然とする思いが有った。
こうしてはいられないと思った、このままでは死ねないと思った。
かつて夫だった田畑麦彦さんとの出会いから別れまでを書いたのが「晩鐘」で、「戦いすんで日が暮れて」は始まりです。
夫をどう理解すればいいかという問題がずーっと有って、いろんな現象が次々に起きて、夫婦喧嘩が忙しくてじっくり彼について考えると言う暇が無かった。
別れてしまったあと、作家に成れたのは彼のおかげだったとの思いがずーっとあるんです。
私の人生は彼に依って半分は作られたと言う思いが有ります。
本もあまり読まないし、文学少女ではなかった。
結婚してうまく行かなくて、独りになって一人で生きていかなくてはいけなくなって、性格的に協調性が無くて、母が考えたが、何にも出来ることが無いと思っていた。
夫の事(夫はモルヒネ中毒だった)、姑等の事を手紙に書いて送っていたが、父(小説家の佐藤紅緑)はそれを読んで、愛子は嫁に行かせないで物書きにした方がいいのではないかと言っていた。
母からそのことを言われて、それから書く様になった。
女学校卒業の時に日米戦争が始まった。(軍国少女だった)
文章に対する感性は持って生まれた血の中に有ったのではないかと思う。
ちょっと誉める様な人もいて、「文藝首都」という同人雑誌に入る。
田畑麦彦氏も入っていた。
「ロマンの残党」と名前を付けたグループが出来てそこに入って、其仲間に対して感謝している、いろいろなことを学んだ、詰まらないことを書くとぼろくそに言われることが勉強になる。
すこしずつすこしずつ進んでいった訳で、長いこと下住みみたいな生活で非生産的な生活を送っていた。
田畑麦彦氏と共に花札をやって、田畑麦彦氏が帰ることになりバス停まで見送りするシーンが有るが、現実との断絶感覚が自然描写と共に描かれているが、この部分は苦労した。(繰り返し書きなおした)
母とけんかをして家を出たので自分で稼ぐしかなくなって、働きに病院に行って、その帰り築地のその頃は川がいっぱいあり、橋を渡って電車賃を倹約するために銀座の方に歩いてゆくが、真っ赤な夕日が沈んでいくのを見て、一体いつまでこのように夕日を見るのだろうかと思ったが、河野多恵子さんも同じような思い出が有り、其れを書いているので思い出して胸が痛くなったと、よく話をしていた。
皆認められるまでは、そういう想いを抱えて暮らしているんですよ。
私は自分のために書いているんです、生きるために書いているんです。
段々判らないことの方が多くなって、歳を取って厄介なのは本当に正確に言おうと思うと言えなくなってしまう。
何を書いても結局は作家は己を語ると言う事に結果は成ってしまう。
「晩鐘」でも初めは田畑麦彦を書こうとしたんだけれども、結局は杉という女が如何に変な女かというのがよくかけていて、辰彦を書いているうちに杉というものが出てきて、己を語ると言う事になってくる。
人間という者には、悪い可能性、良い可能性も無尽蔵に秘めていて、そんなものは判りっこないと思う。
人間はいうにいえない自分でもわからないものを抱えて生きているのではないかと思う。
「晩鐘」は、かく生きたという事実だけをうけいれるだけでいいんだと言う結論で、それでいいのだと思います。
我々は現象だけを見て、憎んだりするが、憎しみ、怒り、非難とは別に何故こういう人間ができたんだろうと、彼(麻原彰晃)はそういう自分をどう思っているんだろうと、好奇心としか言いようがない。
私はあらゆる人に対してそう思います。
「晩鐘」 人間をもっと判りたい、あえて言うなら人間そのものへの愛情だと思います。
ホームレスの人を見ると何故かしら、お友達になりたいと思う。(どう歩んできたのか?)
駅のホームの反対側に見るからにホームレスと言う老人が立っていて、よれよれのマンガの本を読んでいて、突然大きな口をあけて、ワハッハッハッと一人でわらっていて、彼を笑わせたマンガはどういうマンガだろうと知りたいなあと思っちゃう、思うに任せぬ日々の中であそこまで笑える時間があったという事は胸が暖かくなるような思いがして、今でもその人のことが忘れられない。
昭和44年「戦いすんで日が暮れて」で直木賞を受賞、平成12年には12年間かけて取り組んだ3400枚もの長編小説「血脈」で菊池寛賞を受賞されています。
昨年12月「晩鐘」を出版、この作品は45年前受賞した「戦いすんで日が暮れて」に連なる、かつて夫だった一人の男の姿を追求した小説で、90歳を超えて書き上げた円熟の小説と評判を呼んでいます。
88歳から「晩鐘」を書きはじめる。
50歳の時に貴方は90歳まで生きられると言われたが、その時は実感が無かったが、88歳になっても人生の終りに来ているとの自覚は無かったが、突然そのことを思い出して、あと2年しか生きられないと、愕然とする思いが有った。
こうしてはいられないと思った、このままでは死ねないと思った。
かつて夫だった田畑麦彦さんとの出会いから別れまでを書いたのが「晩鐘」で、「戦いすんで日が暮れて」は始まりです。
夫をどう理解すればいいかという問題がずーっと有って、いろんな現象が次々に起きて、夫婦喧嘩が忙しくてじっくり彼について考えると言う暇が無かった。
別れてしまったあと、作家に成れたのは彼のおかげだったとの思いがずーっとあるんです。
私の人生は彼に依って半分は作られたと言う思いが有ります。
本もあまり読まないし、文学少女ではなかった。
結婚してうまく行かなくて、独りになって一人で生きていかなくてはいけなくなって、性格的に協調性が無くて、母が考えたが、何にも出来ることが無いと思っていた。
夫の事(夫はモルヒネ中毒だった)、姑等の事を手紙に書いて送っていたが、父(小説家の佐藤紅緑)はそれを読んで、愛子は嫁に行かせないで物書きにした方がいいのではないかと言っていた。
母からそのことを言われて、それから書く様になった。
女学校卒業の時に日米戦争が始まった。(軍国少女だった)
文章に対する感性は持って生まれた血の中に有ったのではないかと思う。
ちょっと誉める様な人もいて、「文藝首都」という同人雑誌に入る。
田畑麦彦氏も入っていた。
「ロマンの残党」と名前を付けたグループが出来てそこに入って、其仲間に対して感謝している、いろいろなことを学んだ、詰まらないことを書くとぼろくそに言われることが勉強になる。
すこしずつすこしずつ進んでいった訳で、長いこと下住みみたいな生活で非生産的な生活を送っていた。
田畑麦彦氏と共に花札をやって、田畑麦彦氏が帰ることになりバス停まで見送りするシーンが有るが、現実との断絶感覚が自然描写と共に描かれているが、この部分は苦労した。(繰り返し書きなおした)
母とけんかをして家を出たので自分で稼ぐしかなくなって、働きに病院に行って、その帰り築地のその頃は川がいっぱいあり、橋を渡って電車賃を倹約するために銀座の方に歩いてゆくが、真っ赤な夕日が沈んでいくのを見て、一体いつまでこのように夕日を見るのだろうかと思ったが、河野多恵子さんも同じような思い出が有り、其れを書いているので思い出して胸が痛くなったと、よく話をしていた。
皆認められるまでは、そういう想いを抱えて暮らしているんですよ。
私は自分のために書いているんです、生きるために書いているんです。
段々判らないことの方が多くなって、歳を取って厄介なのは本当に正確に言おうと思うと言えなくなってしまう。
何を書いても結局は作家は己を語ると言う事に結果は成ってしまう。
「晩鐘」でも初めは田畑麦彦を書こうとしたんだけれども、結局は杉という女が如何に変な女かというのがよくかけていて、辰彦を書いているうちに杉というものが出てきて、己を語ると言う事になってくる。
人間という者には、悪い可能性、良い可能性も無尽蔵に秘めていて、そんなものは判りっこないと思う。
人間はいうにいえない自分でもわからないものを抱えて生きているのではないかと思う。
「晩鐘」は、かく生きたという事実だけをうけいれるだけでいいんだと言う結論で、それでいいのだと思います。
我々は現象だけを見て、憎んだりするが、憎しみ、怒り、非難とは別に何故こういう人間ができたんだろうと、彼(麻原彰晃)はそういう自分をどう思っているんだろうと、好奇心としか言いようがない。
私はあらゆる人に対してそう思います。
「晩鐘」 人間をもっと判りたい、あえて言うなら人間そのものへの愛情だと思います。
ホームレスの人を見ると何故かしら、お友達になりたいと思う。(どう歩んできたのか?)
駅のホームの反対側に見るからにホームレスと言う老人が立っていて、よれよれのマンガの本を読んでいて、突然大きな口をあけて、ワハッハッハッと一人でわらっていて、彼を笑わせたマンガはどういうマンガだろうと知りたいなあと思っちゃう、思うに任せぬ日々の中であそこまで笑える時間があったという事は胸が暖かくなるような思いがして、今でもその人のことが忘れられない。
2015年6月2日火曜日
鈴木比佐雄(出版社代表・詩人) ・優れた詩人たちを育てたい
鈴木比佐雄(出版社代表・詩人) ・優れた詩人たちを育てたい
東京都荒川区に生まれる。法政大学文学部哲学科卒業。1987年、詩誌「コールサック」(石炭袋)を創刊。
詩作を続けている詩人たちの作品を紙面に載せ、詩の精神を後世に伝えたいとの願いからでした。
2006年には法人化し、これまでに詩集、評論集、芸術書など100数十冊発行しています。
なかでも『原爆詩一八一人集』、『大空襲三一〇人詩集』など公募作品を元にしたアンソロジー選集は大きな反響を呼びました。
鈴木さんは日本現代詩人会の理事、宮沢賢治学会の会員でもあり、広報活動を通じて新しい詩人の発掘にも努めています。
詩的な精神を皆さん持っているので、大半の人は詩人だと思います。
詩の言葉は個人言語、内面、肉体のリズムの中から生まれてくるものなので、それに気づけば詩が書けるはずなんですね。
詩という方法で芸術作品として残すことは感動を他の人に伝えられる有効な方法なんですね。
感動を伝達させるのが、詩の大きな役割かと思います。
石炭屋の息子だったので、高校生になるまでほとんど本を読んだ記憶がなかった。
山谷の近くだったので、働いている人たちが真っ黒になった、そういう人たちのために、薪と一緒に上に石炭を入れて石炭風呂を焚いて、その人たちの汗を流させると言う事が私の仕事だった。
6年の時と中学校3年生の時に、会社がつぶれて、高校生のころには毎日、本を1~2冊読むようになり、1年後には哲学書を読むようになった。
本格的に詩を書き始めたのは大学生になってからです。
弟が亡くなったこともあり、人間の内面を見つめる、不安、絶望、死、神だとか、考えたいと思って哲学に入った。
詩と哲学は非常に似ているなと思った。
「水泡-隅田川公園にて」 30代後半の作品
東京大空襲と関連する詩。
本質的なものが立ち現われて来て呼びかけられて、自分のリズムではあるが、亡くなった死者だとか、そういう人たちの思いが乗り移った形で、詩が生まれてくる、そういう書き方です。
「コールサック」(石炭袋)の由来 最も尊敬する宮沢賢治が書かれた、「銀河鉄道の夜」 9章にジョバンニとカンパネルナの会話があって、「白鳥座の向こうに石炭袋が有る」という場面があるが、宮沢賢治が語ろうとしたのは、ブラックホールであるのだが異次元の入り口、幸福の入り口の様なイメージが有って、宮沢賢治の精神を後世に伝える様な出版社を作りたいと思ったと同時に、石炭屋の息子だったので、ダブルイメージで「コールサック」(石炭袋)という名前の雑誌を32歳のころに作った。
詩論を書いていて、多くの詩人たちが応援してくれた要因になった。
原爆を経験した国民なので、原爆は落とされたけど決して復讐をしない、そういう悲劇を二度と繰り返さない世界を作ろうとする精神が、戦後史の根本にあって、そういう詩人たちの詩を結集して後世に残すべきではないかと評論を書いていたが、実現するためには出版社を作るしかないと思う様になった。
『原爆詩一八一人集』2007年に刊行
1997年に浜田知章さん 詩人 戦後広島に行き、原爆の悲劇を世界中に伝えて、原爆のない世界を作って行こうと原爆詩運動を提唱した人物で、「コールサック」社を応援してくれた。
鳴海英吉さん シベリアに抑留された詩人 この人も「コールサック」社を応援してくれた。
峠三吉さん
『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
被爆者ではないが、原爆詩を書いている詩人たちが沢山いる。 新川和江さん
181人のうち50名ぐらいが被爆体験の詩人で、残りの人は被爆経験はないが、原爆詩を書いている作品を集めて、日本語版、英語版を作って2007年に出しました。
世界の空襲、空爆の詩を集めて、2009年に実現しました。 『大空襲三一〇人詩集』
『鎮魂詩四〇四人集』
鎮魂は日本の文学の重要なテーマで柿本人麻呂から始まっている、「妻を悼む」(挽歌)
鎮魂詩は詩の大きなテーマでもある。
現代の万葉集みたいなものを作りたいと思っていた。
「コールサック」で共通のテーマを提示して公募する。
詩人の感受性をしっかり受け止めてあげて、詩人たちが自分とは何かという事に対してアドバイスが出来ると思う。
「生き抜くための歌六十八人詩集」 自殺予防のための詩集と考えてアンソロジーを出した。
詩はある意味で生きるエネルギーをもう一度取り戻せる効果はあると思う。
自分の感受性から始まる、小さな自己から始まって詩を展開してゆく事で、本来的な自己に向かって行って、様々な他者(自然、事物)を発見してゆく、出来れば最後は他者の幸せを願う詩に向かっていけばいいなあと思う。
受けた感動を他者に伝えることが、詩の大きな効果だと思う。
若松丈太郎さんがいて、40年前から福島原発が危険だと言う事で「神隠しされた街」(福島原発が爆発したらどうなるかというシュミレーションした)という詩が有る。
2011年即 「命が危ない 311人詩集」 2012年「脱原発・自然エネルギー218人詩集」出版。
2017年 に「原爆詩 一八一人集」から10年になるので、181人だったものを300人ぐらいに拡大して世界中の海外に詩人と交流しているので、「原爆詩 300人集」の日本語版、英語版を作ってみたい。
詩の世界を活性化させていきたいと思っている。
東京都荒川区に生まれる。法政大学文学部哲学科卒業。1987年、詩誌「コールサック」(石炭袋)を創刊。
詩作を続けている詩人たちの作品を紙面に載せ、詩の精神を後世に伝えたいとの願いからでした。
2006年には法人化し、これまでに詩集、評論集、芸術書など100数十冊発行しています。
なかでも『原爆詩一八一人集』、『大空襲三一〇人詩集』など公募作品を元にしたアンソロジー選集は大きな反響を呼びました。
鈴木さんは日本現代詩人会の理事、宮沢賢治学会の会員でもあり、広報活動を通じて新しい詩人の発掘にも努めています。
詩的な精神を皆さん持っているので、大半の人は詩人だと思います。
詩の言葉は個人言語、内面、肉体のリズムの中から生まれてくるものなので、それに気づけば詩が書けるはずなんですね。
詩という方法で芸術作品として残すことは感動を他の人に伝えられる有効な方法なんですね。
感動を伝達させるのが、詩の大きな役割かと思います。
石炭屋の息子だったので、高校生になるまでほとんど本を読んだ記憶がなかった。
山谷の近くだったので、働いている人たちが真っ黒になった、そういう人たちのために、薪と一緒に上に石炭を入れて石炭風呂を焚いて、その人たちの汗を流させると言う事が私の仕事だった。
6年の時と中学校3年生の時に、会社がつぶれて、高校生のころには毎日、本を1~2冊読むようになり、1年後には哲学書を読むようになった。
本格的に詩を書き始めたのは大学生になってからです。
弟が亡くなったこともあり、人間の内面を見つめる、不安、絶望、死、神だとか、考えたいと思って哲学に入った。
詩と哲学は非常に似ているなと思った。
「水泡-隅田川公園にて」 30代後半の作品
東京大空襲と関連する詩。
本質的なものが立ち現われて来て呼びかけられて、自分のリズムではあるが、亡くなった死者だとか、そういう人たちの思いが乗り移った形で、詩が生まれてくる、そういう書き方です。
「コールサック」(石炭袋)の由来 最も尊敬する宮沢賢治が書かれた、「銀河鉄道の夜」 9章にジョバンニとカンパネルナの会話があって、「白鳥座の向こうに石炭袋が有る」という場面があるが、宮沢賢治が語ろうとしたのは、ブラックホールであるのだが異次元の入り口、幸福の入り口の様なイメージが有って、宮沢賢治の精神を後世に伝える様な出版社を作りたいと思ったと同時に、石炭屋の息子だったので、ダブルイメージで「コールサック」(石炭袋)という名前の雑誌を32歳のころに作った。
詩論を書いていて、多くの詩人たちが応援してくれた要因になった。
原爆を経験した国民なので、原爆は落とされたけど決して復讐をしない、そういう悲劇を二度と繰り返さない世界を作ろうとする精神が、戦後史の根本にあって、そういう詩人たちの詩を結集して後世に残すべきではないかと評論を書いていたが、実現するためには出版社を作るしかないと思う様になった。
『原爆詩一八一人集』2007年に刊行
1997年に浜田知章さん 詩人 戦後広島に行き、原爆の悲劇を世界中に伝えて、原爆のない世界を作って行こうと原爆詩運動を提唱した人物で、「コールサック」社を応援してくれた。
鳴海英吉さん シベリアに抑留された詩人 この人も「コールサック」社を応援してくれた。
峠三吉さん
『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
被爆者ではないが、原爆詩を書いている詩人たちが沢山いる。 新川和江さん
181人のうち50名ぐらいが被爆体験の詩人で、残りの人は被爆経験はないが、原爆詩を書いている作品を集めて、日本語版、英語版を作って2007年に出しました。
世界の空襲、空爆の詩を集めて、2009年に実現しました。 『大空襲三一〇人詩集』
『鎮魂詩四〇四人集』
鎮魂は日本の文学の重要なテーマで柿本人麻呂から始まっている、「妻を悼む」(挽歌)
鎮魂詩は詩の大きなテーマでもある。
現代の万葉集みたいなものを作りたいと思っていた。
「コールサック」で共通のテーマを提示して公募する。
詩人の感受性をしっかり受け止めてあげて、詩人たちが自分とは何かという事に対してアドバイスが出来ると思う。
「生き抜くための歌六十八人詩集」 自殺予防のための詩集と考えてアンソロジーを出した。
詩はある意味で生きるエネルギーをもう一度取り戻せる効果はあると思う。
自分の感受性から始まる、小さな自己から始まって詩を展開してゆく事で、本来的な自己に向かって行って、様々な他者(自然、事物)を発見してゆく、出来れば最後は他者の幸せを願う詩に向かっていけばいいなあと思う。
受けた感動を他者に伝えることが、詩の大きな効果だと思う。
若松丈太郎さんがいて、40年前から福島原発が危険だと言う事で「神隠しされた街」(福島原発が爆発したらどうなるかというシュミレーションした)という詩が有る。
2011年即 「命が危ない 311人詩集」 2012年「脱原発・自然エネルギー218人詩集」出版。
2017年 に「原爆詩 一八一人集」から10年になるので、181人だったものを300人ぐらいに拡大して世界中の海外に詩人と交流しているので、「原爆詩 300人集」の日本語版、英語版を作ってみたい。
詩の世界を活性化させていきたいと思っている。
2015年6月1日月曜日
小林一通(染色補正技能士) ・着物をよみがえらせる”しみ”ぬきにかけた我が人生
小林一通(染色補正技能士) ・着物をよみがえらせる”しみ”ぬきにかけた我が人生
1948年東京生まれ、シミ抜きの国家資格、染色補正1級技能士です。
シミ抜きと言いますと、食べものや油などのシミを落とす物という印象ですが、染色補正はシミ抜きに留まらず、古いシミで黄色く変色してしまったり、色焼けした衣類に染色を施し、元の色に戻していくというもので高度な技術が必要です。
2007年に開かれた技能グランプリの染色補正職種で優勝して、去年現代の名工を受賞しました。
シミを取ってゆくと色がはげたり、黄色くシミがかわってたりするが、色を抜いていくが、染料で元の色に持ってくる、染料を使って直すのが「地なおし」という。
着物が中心、絹なので一番デリケートで難しい。
絵画の様な工房で、筆一本にもこだわっている。
5色 黄色、赤、緑、紫、黒で全ての色を全部出してゆくので非常に繊細。
足りなくなった色を足してゆく。
黄色いシミは薬品が良くなって、シミは良くなるかもしれないが土台の絹は劣化してしまう。
(この方が商売になるが)
昔風 コテを熱しといて、布きれを敷いて着物のシミ部分を置いて、上からたたきだすが、せいぜい石鹸を塗って、シミを剥がしてゆく。
細かい人形の絵が描いてあって、顔にシミが出たり、黄色くなってしまったりするが、ぜんぶ白く塗ってある胡粉を落として、打代の黄色くなった原因を落として、胡粉を塗ってあげてから、顔の眼だとか口などを書いてゆく。
どこを直したのだとかわからないようにするので、作品と言う様なものが残るわけでは無く、辛いところはある。
私の家は代々職人的な仕事をしていた。
好きな時間に仕事をして好きな時間に休めるように、サラリーマンでなければいいと思っていた。
何か作るものをやりたかった。
進学校だったので、高校3年生の時には勉強がつまらなくて、その後8年間修業を積む。
直した時の快感が嬉しかった。
師匠は18歳ぐらいから扱うのは難しいと言っていた、理屈をこねたりするので、先ずは言われた通りにやると言う事が出来て、その後初めて自分の考え方を出してゆく事が必要で、理屈をこねてしまう事は技能は伸びない。
大きくは間違ったことは教えてはいない。(50年100年の実績がある)
醤油のシミでも生地によって違うし、10年前と、1年前の生地でも違うし、決まりなどは一つもなく、
だが昔から言われている大まかなこと間違っていない。
先輩は自分のやりたい様な違う仕事をやっているが、自分は常に同じことをやっているので、いろいろ違う仕事もしたかったので、通いだったのを、住み込みをするようになる。
日本橋が染色、呉服が東京では一番で、神田川に沿って高田馬場、下落合などが染色関係が有名。
現在、師匠も、私の工房も高田馬場にある。
独立をして半世紀になるが、2007年に開かれた技能グランプリの染色補正職種で優勝する。
4つの作業を競う。
シミ抜きの試験としては墨(墨は抜きずらい)とスキヤキのたれ(醤油、砂糖、油、そのほかいろいろ煮込まれて入っているので非常に落ちにくい)は凄くいい問題です。
紋様消し作業 朱色の生地に家紋で白が入っているが、白い数mmの丸だけを消さないという課題だが、すごく難しい。(4つの中で一番難しかった、5日間やっても出来ないこともある)
4つ全て2日間、10時間でやらなければいけない。
京都が発祥で、公家さんの着物、裃の汚れを落としていた。
芸者、舞こ等のきものの汚れを取ることにも広がって行った。
後継者、若手が少しはいるが、着物関係の方がシミ抜き屋になる方が多い。
息子が後を継いでくれることになり、嬉しかった。
息子に仕事を教えることは、いろいろ気を使ってしまって、弟子の様には行かない。
弟子には盗んで覚えろと言っていたが、つい教えてしまったり、甘やかしてしまう。
シミ抜きにかかわらず、高度な技能の継承が出来ていない。
練習とお客さんの仕事では緊張感が全然違うので、高度な技能の伝承が難しい。
今の時代は、いいものが無くなって来て、良いものを見る目がなくなって来ている事が残念です。
1948年東京生まれ、シミ抜きの国家資格、染色補正1級技能士です。
シミ抜きと言いますと、食べものや油などのシミを落とす物という印象ですが、染色補正はシミ抜きに留まらず、古いシミで黄色く変色してしまったり、色焼けした衣類に染色を施し、元の色に戻していくというもので高度な技術が必要です。
2007年に開かれた技能グランプリの染色補正職種で優勝して、去年現代の名工を受賞しました。
シミを取ってゆくと色がはげたり、黄色くシミがかわってたりするが、色を抜いていくが、染料で元の色に持ってくる、染料を使って直すのが「地なおし」という。
着物が中心、絹なので一番デリケートで難しい。
絵画の様な工房で、筆一本にもこだわっている。
5色 黄色、赤、緑、紫、黒で全ての色を全部出してゆくので非常に繊細。
足りなくなった色を足してゆく。
黄色いシミは薬品が良くなって、シミは良くなるかもしれないが土台の絹は劣化してしまう。
(この方が商売になるが)
昔風 コテを熱しといて、布きれを敷いて着物のシミ部分を置いて、上からたたきだすが、せいぜい石鹸を塗って、シミを剥がしてゆく。
細かい人形の絵が描いてあって、顔にシミが出たり、黄色くなってしまったりするが、ぜんぶ白く塗ってある胡粉を落として、打代の黄色くなった原因を落として、胡粉を塗ってあげてから、顔の眼だとか口などを書いてゆく。
どこを直したのだとかわからないようにするので、作品と言う様なものが残るわけでは無く、辛いところはある。
私の家は代々職人的な仕事をしていた。
好きな時間に仕事をして好きな時間に休めるように、サラリーマンでなければいいと思っていた。
何か作るものをやりたかった。
進学校だったので、高校3年生の時には勉強がつまらなくて、その後8年間修業を積む。
直した時の快感が嬉しかった。
師匠は18歳ぐらいから扱うのは難しいと言っていた、理屈をこねたりするので、先ずは言われた通りにやると言う事が出来て、その後初めて自分の考え方を出してゆく事が必要で、理屈をこねてしまう事は技能は伸びない。
大きくは間違ったことは教えてはいない。(50年100年の実績がある)
醤油のシミでも生地によって違うし、10年前と、1年前の生地でも違うし、決まりなどは一つもなく、
だが昔から言われている大まかなこと間違っていない。
先輩は自分のやりたい様な違う仕事をやっているが、自分は常に同じことをやっているので、いろいろ違う仕事もしたかったので、通いだったのを、住み込みをするようになる。
日本橋が染色、呉服が東京では一番で、神田川に沿って高田馬場、下落合などが染色関係が有名。
現在、師匠も、私の工房も高田馬場にある。
独立をして半世紀になるが、2007年に開かれた技能グランプリの染色補正職種で優勝する。
4つの作業を競う。
シミ抜きの試験としては墨(墨は抜きずらい)とスキヤキのたれ(醤油、砂糖、油、そのほかいろいろ煮込まれて入っているので非常に落ちにくい)は凄くいい問題です。
紋様消し作業 朱色の生地に家紋で白が入っているが、白い数mmの丸だけを消さないという課題だが、すごく難しい。(4つの中で一番難しかった、5日間やっても出来ないこともある)
4つ全て2日間、10時間でやらなければいけない。
京都が発祥で、公家さんの着物、裃の汚れを落としていた。
芸者、舞こ等のきものの汚れを取ることにも広がって行った。
後継者、若手が少しはいるが、着物関係の方がシミ抜き屋になる方が多い。
息子が後を継いでくれることになり、嬉しかった。
息子に仕事を教えることは、いろいろ気を使ってしまって、弟子の様には行かない。
弟子には盗んで覚えろと言っていたが、つい教えてしまったり、甘やかしてしまう。
シミ抜きにかかわらず、高度な技能の継承が出来ていない。
練習とお客さんの仕事では緊張感が全然違うので、高度な技能の伝承が難しい。
今の時代は、いいものが無くなって来て、良いものを見る目がなくなって来ている事が残念です。
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