吉田欽哉(シベリア抑留 経験者) ・遺骨を家族のもとに帰したい 生き証人としての使命
終戦後およそ60万人とも言われる日本人が当時のソビエトに連行されて過酷な労働を強いられたシベリア抑留、重労働に加えて飢えや寒さ、病気などでおよそ5万5000人が犠牲になりました。 北海道利尻島で生まれ育った吉田さんはシベリアで4年間の抑留生活を送りました。 吉田さんが忘れられないのは戦友たちに必ず迎えに来ると声をかけながらシベリアの地に埋めた事、生き証人の使命として遺骨を家族の元に返したいと語る吉田さんの思いを聞きました。
赤紙が来て何月何日入隊せよと連絡が来ます。 利尻島からは3人が樺太に行くよぅにとありました。 玉音放送があり終戦を知りました。 これで帰るると思いました。 終戦から1週間後に飛行機が来て爆弾を落とし、爆撃にあいました。 大泊?には9月上旬に行きました。 日本人が引き揚げて行って残った空き家みたいなものをロシア人が勝手に使っていて、その家の手入れを一か月ぐらい作業しました。 稚内へ帰れるという話がありました。 船に乗って稚内へ行くのかと思ったら北に向かっていることが判りました。 捕虜になったと思いました。 ソフガワニ?と言う港のところへ到着し収容所に入れられました。
まず港の拡張作業をやらされました。 歩いて移動させられて次に伐採作業をやらされました。 様々な収容所に移動させられまいたが、ほとんど歩きで行きました。(トータルで2000kmぐらい歩いた。) 冬は伐採、夏は道路、建築などです。 一日8時から5時まで作業しました。 食事は一枚のパンとスープ、夜も黒いパンで酸っぱい。 足りないので倒した木の皮をはいで、内側の白い部分を削って食べました。 食べられるものは何でも食べました。 1月~3月が特に厳しかった。 (寒さと飢え) 朝になると硬くなっている人が多かった。(栄養失調などで死亡) 一日4体の穴掘り作業をしました。 20日間行いました。 今度は自分が入るかもしれないという思いで作業していました。
4年間の抑留後、1週間ぐらいかけてナホトカについてそこから日本に帰ってきました。 帰れるという自分のことしか考えていませんでした。 2019年にかつて戦友を埋めた場所で国土省の調査が行われました。 私も同行しました。 足の骨を掘り起こしましたが、持ち帰ることはできませんでしたが、そばにあった石を持ち帰りました。 「また来るから我慢してよ。」と墓地では声を掛けてきました。 遺骨収集の事業は、今一時中断しています。(コロナ、ウクライナ侵攻) 生き証人がいる間に無事に家族の元に返してあげたい。
今年100歳を迎えます。 戦争とはどういうものなのか、捕虜とはどういうものなのか、自分の生きざまをきちんと整理して、生きている間にもう一回行きたい。 供養のために一昨年慰霊碑を建て、戦友に声をかけています。 戦友とは軍隊に入らないと判らない。 遺骨を家族のもとに帰したい。