2025年8月8日金曜日

森貴美子(被爆者)            ・語れなかった80年の恋

森貴美子(被爆者)            ・語れなかった80年の恋 

長崎に原爆が投下されて明日で80年です。  今年被爆者の数が初めて10万人を下回り、平均年齢は86歳を越えました。  被爆の記憶や記録を少しでも多く次世代に残そうと、国では全国の被ばく者を対象に体験記の募集を始めました。 そのなか被ばく80年にして初めて語ったと言う体験記が長崎に寄せられました。  綴られていたのは原爆に翻弄された或る恋の物語です。  手記を出したのは長崎で被爆して現在は群馬県高崎市にお住まいの森貴美子さん(85歳)です。  森さんが5歳の誕生日を迎えた4日後に原爆が投下されました。  森さんは被爆体験を語るのに何度も葛藤したと言います。  80年間誰にも話さなかった過去をなぜいま語ることにしたのか、伺いました。

こんなことは人に話すようなものでもないし、今まで誰にも話したこともないし、それをわざわざ書かなくてもいいかと思っていました。   死に直面した病気にかかてしまいました。  自分の命の限界を知った時に、何かの役に立てばと思って、 書くことにしました。  被爆したのは私の責任ではないじゃないですか。  もし被ばくしていなかったらこんな生き方をしていなかっただろうとか、苦しむことはなかっただろうとか、心のなかに自分は被爆者だという事を絶対思っていましたから。  

5歳の時に爆心地から4,5kmの家で被爆しました。  光が全体を包んだと同時に家中の家具とかが爆風で全部とんじゃって家に中は無茶苦茶でした。  母と伯母が私と妹を押し入れに突っ込みました。  それが良かったのかもしれないです。  妹と二人で泣いていました。  妹が亡くなりましたが、いつ亡くなったのか私は判らないです。 

「終戦を迎え私は大学時代にある男性と交際を始めました。  彼は私より7歳年上。 将来は結婚を前提としたお付き合いです。 勿論私の両親公認でした。 その方は真面目で正直な人でした。  結婚が二人の間で具体的になり始めた頃、私は初めて迷い出したのです。 私は被爆者。  このまま結婚して子供が生めるのだろうか。  仮に子供が生まれてもその子は一生被爆二世として生きて行なければならない。  今考えると馬鹿な考えと思うところもあるかとは思いますが、当時の私は不安で結婚に踏み切れなくなりました。  彼は子供のことが心配なら子供入らないとさえ言ってくれましたが、私自身いつ発病して死ぬかわからない、という思いに取りつかれ彼との交際を諦めお別れしました。  私が何の躊躇もなく結婚していたら今と全く違う人生が展開していたと思っています。  原爆は一瞬のうちに人の人生、生き方を変えてしまうものと思っています。 幸い体には目に見える傷は残っていないものの、心には生きる事への諦めがずっと残っていました。」

はじめて恋をした方と結婚したかった。  結婚してもいいのか迷い出しました。 私は被爆者なんです。  家から彼を送ってゆくときに小さな公園で被爆のことを話しました。 隠し事をして結婚するのは卑怯なことだと思いました。  二人で背負ってゆくんなら二人で背負ってゆくしかしょうがないだろうと言いました。  聞いた時にこの人に負担をかけたら絶対駄目だと思いました。  結婚に踏み切れた人は勇気があったと思います。  

被爆体験のことを書いて読み返してみたら、こんなに浅い考えじゃないよな、もっと根深いものが自分のなかには残っているなと言う気がしています。   結婚をお断りした後、もう自分の人生は終わりだと思いました。  もう他に人とも結婚はしないし、出来ないし、これから先何を目当てに、何のために生きていくんだろうと思って死にたくなりました。  写真を全部ハサミで切ってしまって捨てました。  生まれた時から24,5歳までの写真は一枚も残しませんでした。  死のうと思いましたが、母に見つかって失敗しました。  被ばくしたからこそ生きて行かなければいけないと、今は思っています。 

原爆は私から愛、家庭、子供、自分そういったものを全部奪いました。  被爆するという事はある意味殺されるという事、生きる意味を否定される事です。  自分の夢や目標に向かって進んでいきたいと思た時に、それに全部ストップをかける。  原爆は本来の私を殺した敵です。  逃れられないから皆苦しんでいる。   特に小学生たちに、昔こういうことがあったんだよ、貴方たちの時代には絶対こういう事がないような、そういう世界をつくってねって、それを言いたかった。  原爆のことを知らない人たち、ちょっとでも知ってほしい。