桂文枝(落語家 六代) ・落語家60年目にみる景色(後編) ~落語家として生きて~
大坂出身82歳。 母一人子一人で、母の兄弟に預けられて育ちました。 姉の叔父さんに連れられてNHKの第一スタジオの「お父さんはお人よし」を観て笑いに目覚めました。 高校になって演劇部に入って先輩に直井さん(レッツゴー3匹の真ん中にいるレッツゴー正児さん)がいました。 漫才を観て面白そうだなと思いました。 自分で書いて相方と始めたのが漫才でした。 直井さんがプロになってはじめた時の相方が横山やすしさんでした。 その後別れて最終的に横山やすしさんがきよしさんと組みました。 その年に私はこの世界に入りました。 私と組んだ相方が漫才を辞めることになり私は大学に入りました。 大学の2年の時に落語研究会を作ろうという話もあり、桂米朝師匠の公演を観て、感銘を受けました。
落語研究会を作ることに参加しました。 部長になって「浪漫亭ちっく」の芸名を付けて授業にはあまり出ませんでした。 この先はと思った時には落語しか頭の中にはありませんでした。 プロになるように回りから言われてプロになりました。 同じ世代の人に聞いてもらうのと、世代の違ういろんなお客様に見せるのとこれほど違うのかという事を、厭と言うほど思い知らされました。 師匠の言うとおりにやっても受けませんでした。 受けるにはどういたらいいのか、悩んで悩んでやり始めて受けるようになってゆくというのが良かったと思います。 深夜番組に出るように師匠から言われて、いったら同年代層の人たちで、学生時代と同じような感じでやったら、凄く受けプロデューサーに気に入っていただきました。
ラジオに出て有名になって、レギュラーが10本ぐらいもありました。 落語もやらないといけないという思いもありました。 長門裕之さんからいっそ落語を辞めて、司会者などになったらどうかと言われました。 悩みましたが、初心は忘れてはいけないという事で長門さんには落語を続けていきたいと話しました。 座布団を5枚贈られてきました。 合間合間に稽古をやり続けました。 「新婚さんいらっしゃい」で司会をやり始めて、51年3か月続けてやりました。 落語の話し方とは違う話し方をしているうちに、自分で落語を作ってみようと思いました。 意外と作ることができました。 創作落語現代派と言う名前をつけて頂き、声を掛けてさんまさんとか鶴瓶さんも出ました。 そこからずっと続いていきました。 いろんな創作落語をやってきました。 古典をこんな風に枝雀さんがされるようなものになったら私は到底出来ないなあと思って、新しい落語を作り出しました。 枝雀さん古典に戻りましたが、私は古典落語に戻る暇もなく創作を続けてきました。
60歳の時に上方落語の会長に就任しました。 上方では60年振りとなる天満天神繁昌亭を開場しました。 上方落語家も300人に近づく勢いになりました。 上方落語を観ていて非常に危うい感じになって来ました。 落語を何とかせねばいかんと言う気概がちょっと薄れているような気がします。 また漫才に押されているという面もあります。 漫才へはいろんなところで1万組ぐらいが応募します。 落語は300年の歴史があり、10ぐらい覚えたら十分にいろいろな仕事が出来るんです。 それだけで満足してしまうと言うきらいはありますね。 漫才は苦労して苦労して頂点を目指してやっている。 まくらがあって本体があって下げがあって一つの落語ですが、どこに山を持っていくかとか、落語界のなかに教室をもって、次の世代の人のためにやってみようかなとは思っています。
落語家がなかなか出て行けるところがないので、お客さんの前でしゃべるという事が大事なので、正統にやって欲しいと思います。 そういった場を増やしていきたい。 最後の最後まで落語に関わって、最後の最後まで落語をやって行きたい。 面白い落語を必ず500作完成させたい。