金城利一(沖縄県豊見城市) ・砲弾の雨をくぐりぬけて 今も悔やむ南部への道
金城さん(91歳)が生まれ育ったのは沖縄県南部の豊見城市。 沖縄戦当時、海軍司令部などの軍事施設があったため、アメリカ軍の激しい攻撃をうけ、おおくの住民が犠牲となりました。 戦後80年沖縄戦を体験した世代の沖縄県民全体に占める割合は8%を切り、戦争体験を聞くことはますます難しくなっています。 11歳の時に沖縄戦を体験し、家族5人を失った金城さんに戦争の記憶と戦後80年の今、強める平和への思いを伺いました。
私は幼少のころ父が亡くなりまして、弟と二人兄弟でした。 貧乏で二人は育てられないという事で、私は母の実家で母と一緒に育ちました。 弟はおばあさんと一緒に育ちました。 弟とは一緒には遊んでいました。 学校でも遊びは兵隊ごっこでした。 小学校3年には軍事訓練も受けました。 ルーズベルトとチャーチルの藁人形を作って竹やりで突くわけです。5年生の時には学校は兵舎になって、兵隊が防空壕を掘って、その土を出すのが我々の仕事でした。 授業はなかったです。 軍国少年として育っていきました。
1945年3月になるとアメリカの艦船が接近して、艦砲射撃が始まります。 4月には沖縄本島に上陸してきます。 4人に一人が犠牲になった地上戦が始まります。 3月23日は5年の終了式の日でした。 直ぐ帰るように言われてその日から防空壕暮らしです。 5,6世帯(20名ぐらい)が一つの壕に入っていました。 最初のころに母の実家は艦砲射撃でやられました。 1945年5月22日には旧日本軍の第32軍が首里城地下の司令部を放棄して、沖縄本島南部に撤退することになる。 住民も南へと避難を余儀なくされる。朝早く壕を出ました。 隊列を組んで後ろの方を歩いていました。 2,30mぐらいのそばに弾が落ちるわけです。 そこで隊列から別れてしまいました。 戻ったのは1/3ぐらいでした。 その後南へと向かいましたが、会えませんでした。 後ろの組は全員生き残りましたが、先の組は生き残ったのは2人でした。 おばあさんと弟は先の組でした。
命令なので南部を目指していきましたが、向こうに行っても壕はないとおじいさんが言うので、行かないでおこうと言われました。 戻るとアメリカ軍の捕虜になってしまうので戻れない。 近くで壕を捜してそこに入ろうとおじいさんが言って、壕を見つけて入りました。その間に10体ぐらいの死体は見ました。 4,5日してからアメリカ兵が出て来いと言ってきました。 手榴弾も投げれれることもなく、アメリカ兵が入ってきました。 おじいさんに向かって「心配ない 心配ない」と言ってきました。 手で引っ張り出されて、ここで殺すんだなと思いました。 水と菓子を出しましたが、毒が入っているのではないかと食べませんでした。 兵隊は水を飲んで菓子を 食べて見せました。 私は水も飲みましたが、その後殺されると思いました。
糸満の潮平と言うところまで歩かされました。 そこには一杯人がいました。 母、おじいさん、私と親戚合わせて7,8名ぐらいが一緒でした。 弟、おばあさん、母方のおばあさんはおじさん伯母さんらとははぐれてしまいました。 南へ逃げた弟たちは壕を見つけて入ったそうですが、日本兵が後から来て民間人を追い出したそうです。 岩陰に隠れているところを集中砲火を浴びて亡くなったそうです。 その中の2人(従兄弟)は生き残り、日本兵の壕にもぐりこんだと言っていました。 (後日聞いた話) 戦後遺骨を捜しに行ったら大きな岩のところに白骨がありました。 誰の遺骨か、残っていた衣服のきれっぱしで母が判断しました。 遺骨を前に声を出して泣きました。
戦争と言うのは悲惨なものです。 どんなことがあっても戦争だけはいけないと思います。 南部撤退がなければ亡くならないで済んだのになあと思います。 捕虜になれば我々みたいに生き残った。 いまでも戦争はなくならず、一番被害を受けるのは住民です。 今の状況は戦前の臭いがします。 戦争に参加しない、戦争を起こさない運動を広げるべきだと思います。