高橋昇一(占守島の戦い 体験者) ・占守島の戦いを語り継ぐ
数少ない生存者北海道小樽市に住む高橋昇一さん(103歳)。 高橋さんは昭和18年千島列島最北の島占守島に配属されました。 終戦3日後の8月18日未明島にソ連軍が上陸、終戦後の戦闘という事もありその詳細はほとんど知られていません。 80年前の夏、占守島で何があったのか。(占守島の戦い)
占守島は昭和20年には日本の領土でした。 夏は濃い霧が出て冬は猛吹雪の厳しい島でした。 ソ連軍が上陸する前は、国境警備、陣地の設営、豪を掘っていました。 国境警備は望遠鏡でカムチャツカ半島のソ連兵の動きを観て報告していました。 陣地の設営ではトーチカ(鉄筋コンクリート製の防御陣地を指す軍事用語 10人ぐらいが入れる。)を作っていました。 豪は深さ1,2mぐらい幅は60cmぐらい長さは4~5kmぐらいはありました。 アメリカが毎日空襲に来ました。 機関銃を扱う部隊長として11人ほどの部下がいました。
8月15日テントに30人程度集められて玉音放送を聞きました。 負けそうだなと言う話は何となく聞いていました。 占守島は穏やかな丘が続いて、草原や沼地があり島の北側の一部は砂浜。砂浜以外はほとんど崖で多くの岩礁がある。 四嶺山(しれいさん、標高 171 メートル)には、戦時中に旧日本軍の守備隊の本部が置かれていた。 18日の未明に巨大な輸送船が8800人のソ連兵を連れて竹田浜沖に現れました。 まさかソ連だとは思わなかった。 重装備していたので昼頃につきました。 第一分隊が先に行っていたが、我々が行った時には撃たれていた。 機関銃は4人で操作するものでした。 1分に600発出ました。 豪に身を隠しながら応戦しましたが、ソ連軍からは丸見えでした。 ソ連軍との距離は150mぐらいでした。 戦闘は夕方まで続きました。 21日に白い旗を掲げて四嶺山のところで停戦の交渉をしていたようです。 交渉を終わってその上官は車に乗って帰るところをソ連の兵隊に撃たれました。
その後私は捕虜になりました。 取り調べ後に日本に返すという事を言われました。 700~800人が貨物船に乗せられれました。 夜の北斗七星を観て北に向かっていると気付きました。 シベリアのスヴェトラヤと言う町に連れて行かれました。 一番寒い時には氷点下50度になります。 身体検査をして身体が丈夫な人は1種、次は2種、3種に分けられました。 1種は山で木の伐採、2種は掃除など、3種は特殊な技能を持っている人。 8~9時間の労働でした。 朝はご飯、とキャベツのおつゆなど、昼は100gの黒パンと魚、力仕事には足りるなんて言うレベルではなかった。 テントのなかに25人ぐらいが寝ていました。 トイレは外に壁もなくむき出しで、むしろがあるだけで、順番待ちなので辛かった。 仕事のノルマに達しないと食事を減らされて、痩せて栄養失調になって行きました。
亡くなった方を埋葬するのに穴が掘れないのでダイナマイトで爆破して埋葬用の穴を作りました。 伐採仲間も栄養失調のため一人が亡くなりました。 4年間の抑留生活をしました。 痛んだスコップの柄を利用して麻雀のパイを或る人が作り上げました。 それが唯一の楽しみでした。 生きるためには喰う事でした。 昭和24年帰国することが出来ました。
ウクライナは可哀そう。 ソ連は勝手です。 早く辞めてくれればいいが。
今後ロシアが占守島に博物館を建設するという意向です。 あの戦争のことを後世に残すための博物館と言う事だそうです。 ロシアにとっていい話ばっかりになるのでは。 戦後80年、連絡を取り合う戦友はいないです。 戦争は悲しい。 戦争だけはどんなことがあっても駄目。