瀬古利彦(元マラソンランナー) ・〔師匠を語る〕 陸上部監督・中村清を語る
瀬古さんは四日市工業高校時代インターハイの800m、1500mで優勝するなど、中距離、長距離ランナーとして将来を期待されていました。 その瀬古さんを日本屈指のマラソンランナーに育てたのが早稲田大学競走部の中村清監督でした。 厳しい練習で知られる中村監督と瀬古選手、どんな師弟関係があるのでしょうか。
中村監督が亡くなって今年で40年です。 怖かったです。 話が長くて練習の前に1時間ぐらい話します、乗っちゃうと2時間ぐらいは話します。 先生にとっては息子のような感じでした。 中村清さんは1913年韓国ソウルに生まれました。 早稲田大学在学中の1935年箱根駅伝で1区を走り区間一位、翌年は10区を走り区間2位の好成績をおさめます。 陸上1000m、1500mでも当時の日本記録を樹立して、1936年に開催されたベルリンオリンピックに日本代表として出場しました。 1938年軍隊に招集され従軍、母校競走部のコーチに就任したのは終戦の翌年でした。 早稲田が箱根駅伝で18年振りの総合優勝を成し遂げたのは就任から6年後の1952年、更にその2年後の箱根でも総合優勝に輝きました。 一旦早稲田の競走部から退きますが、監督として復帰したのは瀬古俊彦さんが入学した1976年でした。 中村監督の指導の下、瀬古選手は大学2年で福岡国際マラソンで日本人トップとなったのをはじめとして、次々と記録を打ち立てます。 昭和55年瀬古さんが卒業してからは、瀬古さん所属の実業団SB食品陸上部の監督も兼ね、強豪チームに育て上げました。 中村さんは1985年5月渓流釣りの最中に足を滑らせて川に転落、帰らぬ人となりました。(71歳)
私は早稲田から誘われましたが、受験に失敗しました。 南カルフォルニア大学に入学しました。 1976年早稲田大学に入学、中村コーチでした。 当時は箱根駅伝のは予選会にも通らなかったです。 瀬古を教えるのには中村しかいないと小田幹雄先生が頼んだらしいです。 それで合宿に参加しました。 「こんな弱い早稲田にしたのはお前たち学生のせいではない、OBが悪い。 私が謝らせてくれ。」と言って、自分の頬を自分の平手で思い切りバンバンたたき出しました。 「これで許してくれ。」と言ってみんなは唖然とました。 海岸に行って、 「瀬古君これからマラソンをやるんだけれど私の言う事を聞けるか。」と言って片手で砂を取って、「この砂を食べたら世界一になれる薬だったらお前食べれるか。」「これを信じて食べたら世界一になれるんだよ。」 私だったら簡単だと言って、口に入れて食べちゃいました。 凄い人だと思って、「ハイ、マラソンやりますから教えて下さい。」と言いました。
月曜日は大学は練習が休みですが、私だけ中村監督の家に呼ばれて、話を聞いて練習をして美味しいステーキを食べて帰るという事をしていました。(特別扱いされていた。) 中村監督は中距離をやっても大した選手にはならない、マラソンだったら君のスピードを生かしたら世界に通用する。」と言われてマラソンに進む事になります。 (大学1年) 私なりの練習方法を二人で会話しながら進めていきました。 (ああしろこうしろとは言わなかった。) 宗選手の練習は朝40km、夕方40km走ると中村監督からは言われていましたが。 急には追いつけないので徐々に練習方法も増やしていこうと言われました。 「昔は選手を殴ったが、聖書を読んで愛の精神を勉強している、だから絶対殴らない。 本当にいう事を聞かなかったら自分を殴る。」と言いました。 この人は命がけでやる人だなと思いました。練習で雨が降る時がありましたが、傘をさしているのを観たことがないです。 練習時間が5時間とか長いですが、座っているのを観たことがないです。
どっかの時点で厳しい練習では限界があることを感じたのかもしれません。 聖書に「他人にしてもらいたいことを貴方も他人にしなさい。」と書いてあります。 中村監督はその精神なんです。 私もそのような思いでアドバイスをします。 私は大学2年で福岡国際マラソンで日本人最高の5位でした。 3年生では日本選手としては8年振りとなる福岡国際マラソン優勝、4年生では日本人初の2連覇、モスクワオリンピック代表の座も射とめる。 福岡国際マラソンで日本人最高の5位になって、来た中村監督と座ったままで握手をしたら、「貴様はなんだ、教えている監督に座って握手するとはなにごとだ。」と言われて怒られてしまいました。 そういった精神は僕の心に残っています。
1980年 SB食品に入社しました。 中村監督が「SBに行くぞ。」と言われてそうしました。 陸上部が無くて監督が自由に作れるからと言っていました。 1980年5月にモスクワオリンピックのボイコットが決まる。 「オリンピックだけがマラソンではない、他のマラソンで勝ちまくったらオリンピックに勝っただけの価値があるから、瀬古いいか、そういう風にしよう。」と言われました。 3つの目標を立てて全部達成しました。 1983年東京マラソンで自己最高の2時間8分38秒で優勝、福岡でも優勝、1984年のロサンゼルスオリンピックでは金メダル間違いないという予想だったが、14位だった。 「金メダルを期待している。」と毎日言われるわけです。 重荷になってもっと頑張らなければと勝手に思ってしまいました。 勝てばいいかも知れないが、負けることも人生に取って大事。
その翌年新潟県で渓流釣りをしていた中村監督は事故で亡くなりました。 テレビで知りました。 家内と結婚する3週間前に亡くなりました。 妻に任せられると、僕は安心して天国に行ったと思っています。 1986年ロンドンマラソンで優勝、1987年ボストンマラソンでV2を達成。 瀬古は中村監督がいないと走れないと思われたくなくて、いなくても走れることを見せたかった。 1988年現役を引退。 勝てるような練習が出来なくなりました。 ソウルオリンピックの代表選考がもめました。 福岡国際マラソンで一本化という事でしたが、僕は怪我をして回避してしまいました。 4か月後の琵琶湖マラソンに出たんですが、物議をかもして瀬古は卑怯だといろいろ批判が出ました。 琵琶湖マラソンでは優勝しましたが、タイムはよくはなかった。 何で瀬古が選ばれるんだという事で、自分は皆さんから喜ばれてないんだなと言うようなことがあって、マラソンが楽しくなくなってしまいました。 ソウルは最後のマラソンだと思って出ました。
SB食品の監督に就任しました。 自分の顔を叩いたり、砂を食べたりもしましたが、人真似は駄目だと思いました。 自分の心から出てくる言葉とかでないと駄目ですね。 中村監督は、自分が選手の見本になる人、そして引っ張てくれる人、そういう人です。 中村監督はソウルで生まれて貧しくて、日本に戻って来るのに皆さんのカンパで東京に来て、その恩返しのために自分は強くなって陸上競技に貢献する、原点がそういったところだと思います。 自分がお世話になった恩返しだと思います。 僕らも恩返しと言う気持ちはあります。
中村監督は手紙を書くのが好きで、私に所には100通ぐらい来ています。 他の選手にも同様です。
「49年前に先生にお目にかかった時のこと今でも鮮明に覚えています。 ・・・早稲田大学のセミナーハウスで、長距離合宿がありました。 ・・・ 「君が瀬古君だな、1年間浪人させてすまなかったな。 OBを代表して私が謝るから。」と意外な言葉が返ってきました。・・・「1000m、1500mのラストの切れ味は素晴らしい日本人離れしている。」と褒められました。 ・・・これはきっとマラソンで大成する。 私が命懸けで面倒を見てあげるから。」と言って命がけで指導して下さいました。 ・・・自分の顔を叩いたり、砂を食べて見せたり、雨のなかを5時間も6時間も立ったままで、私たちを観てくださいました。 ・・・私も先生と同じ年頃になりました。・・・こうやって半生を陸上競技に奉げてこられたのも先生のお陰です。 これからも陸上競技、マラソンの発展のために残りの人生をかけて行きますので、どうか見守って下さい。 」
言葉って、人の命を救うし、喧嘩もする。 だから言葉って本当に大事だと思います。