川口和久(野球解説者) ・人にできることは自分にもできる
川口さんは1959年鳥取市の生まれ。 野球は子供の頃から始めました。 高校は鳥取城北高校へ進学、エースとし県大会の決勝にまでチームを導きますが、甲子園にはとどきませんでした。 社会人野球を経て、1980年プロ野球広島に、左のエースとして3回にリーグ優勝に貢献、1994年のオフにFA権を行使して巨人に、現役引退後は巨人のコーチとしても活躍しました。 4年前に鳥取にUターンして野球解説者として、もう一つある事にも取り組んでいます。
野球の解説をしながら農業をやっています。 鳥取で18年間勉強しないで遊んでばかりいました。 テレビの長嶋さんの姿がかっこいいと思ったのと兄二人が野球をやっていて、野球をやってみようと思いました。 小中高校と野球をやってきました。 高校は鳥取城北高校でした。 高校3年生の時に金田正一監督からロッテに来い、契約金は3500万円俺の背番号「34」もやると言われました。 しかし断りました。 高校卒業して1軍で活躍する人は少なかった。 デュプロに入社、野球がやりたかったら仕事をしろと社長から言われました。 野球をやりたかったが営業の仕事でした。 3年目に友人の伝手で、広島への話があり、1980年のドラフト会議で原辰徳を抽選で外した広島から1位指名を受ける。 契約金3500万円でサインした。
古葉監督から左ピッチャーのエースになって欲しいと言われました。 エースとしては北別府さんがいて、針の穴をも通すコントロールと言われていて、僕はノーコンの川口と言われていました。 奪三振王を3回取っています。 ファールでカウントを稼いで一球決めて三振を取るタイプでした。 カープ14年目に妻の父親がすい臓がんになってしまって、シーズン始まる前に他界しました。 FAを宣言した時に、妻から「長嶋さんと言う人から電話よ。」と言われました。(小さいころから長嶋さんの大フアンでした。) 急遽長嶋さんと会って、巨人に入団することになりました。 (35歳) 長嶋さんのそばにいると元気になります。
1996年のメイクドラマ、11,5ゲーム差をひっくり返して優勝しました。 突っ走っていたのは広島カープでした。 札幌丸山球場の試合の時に、僕は2軍でしたが急遽呼ばれてリリーフ専門になりました。 そのゲームに勝利しました。 そこから潮目が変わりました。 「みんな、人生もそうだけど野球は何が起きるかわからないから、兎に角一勝一勝勝って行こう。」と長嶋さんが言いました。 9月には0.5ゲーム差にまでなりました。 10月6日長嶋さんが投手陣を呼んで、「兎に角今日は勝たなければいけない。 先発、リリーフはそれぞれぞれがしっかり投げて、川口お前が抑えるんだ。」と言われて、嬉しかったです。 試合もその通りに運んで、9回マウンドに立った時には心臓の音が聞こえるんです。 (初めての経験) 立浪選手を三振に取って勝ちました。 その後巨人でコーチを4年間やらせてもらいました。
2011年広島でオープン戦をやっていました。 原監督から「川口、テレビ見て来いよ。」と言われてテレビを見たら、仙台に津波が押し寄せている映像が映っていました。 その年は3位でした。 2012年優勝できました。 それから3連敗しました。 責任を取らなければいけないので「僕辞めます。」と言ったら、原監督から「そうか」と言われました。(もっと何とか言ってほしかった。)
コロナの時には鳥取に戻り、鳥取を知ることになりました。 野菜は美味しい、米は旨い、肉は旨い、鳥取はいいところだと思いました。 米を作り始めて1年目が2反3畝、2年目が5反、3年目が6反、今年1町です。 来年は2町歩やろうと思っています。 新しいことをやると人間若返る、それは追及するから。 都会はストレスが溜まるが、田舎はストレスは溜まらない。