木村一茂(被爆者・元会社員) ・1歳の被爆者 証言を始める
木村さんは81歳、1歳の時に広島市内で被爆しました。 それまで木村さんはさんは人前では被爆体験を語ることはほとんどありませんでした。 81歳を越えてから証言を始めました。 木村さんの証言のベースとなったのは、父や母が残した手記でした。 木村さんが被爆体験を語り出したのは何故なのか、被爆体験を伝えてゆく意味合いは、伺いました。
1歳9か月で被爆しましたが、ほとんど覚えていません。 父が昭和46年に広島の戦災史と言うものに手記を出して、その後話をしてくれたのでそのころから、被爆の意識を知るようになりました。 父は軍人で経理課長として勤めていました。 母は弟を生んで、8日は縁側であせもの薬を塗っていました。 3つうえの姉がいました。 その後父は病院の立ち上げに携わっていたと言っていました。 公職追放令があったので、父は母の実家の方に行って農業をやっていたと言います。 その後警察予備隊の募集があり、そちらでずっと勤務していました。 最後は陸上自衛隊の経理学校の校長を務めて終わりました。
私は東京の電気の学校に行きました。 電気関係の会社に就職したのちに、30歳の時に羽村にある自動車会社に就職をしました。 ラインの整備点検の業務をしていました。 父の手記とか母は被爆の会の証言集などを書いていたので、それらから被爆のことを知るようになりました。 母からは被爆の話を聞くことが出来ました。 私は剣道を教えていて講話で被爆のことを少しは話をしていました。
私が80歳になった頃、東友会と言う東京の原爆被害者協議会に所属していましたが、高齢化して話をできる方が少なくなってきました。 危機感を感じて自分で話せることだったら話をして、核兵器禁止を訴えていかなければいけないと思いました。 父母の手記がまずベースになりました。 姉からも聞くようにしました。 私なりに組み立てていきました。
母は縁側で生まれて8日目の弟にあせもを塗っていて、閃光が走ったので驚いて隣の部屋に飛び込んだそうです。 元の場所に戻るとガラスの破片で一杯だったと言っています。 姉は庭の片隅で血を流して(耳の後ろを切って)佇んでいたそうです。 私と姉は飛ばされた様ですが、私は無事だったようです。 避難しようと山の方に出たらしいんですが、途中では山から下りてきた人に出会って、皮膚がぼろきれのように下がっていたそうです。 着く頃には大粒の雨が降ってきて慌てて防空壕に避難したそうです。 黒い雨で放射線をたくさん含んだ雨だったようです。 黒い雨を浴びた方は病魔に襲われて沢山亡くなったと聞いています。母は父がけがをしたという事が頭に浮かんで、それが現実だったという事でした。 (母の手記を中心に姉からの情報を含めた内容)
父が被爆した日は、朝に自転車で市役所に行く中途で、よく晴れた空にB29が飛んでくるのが見えたそうです。 B29から光るものが落下したというので、伏せたとたんに閃光と爆風に襲われたと言っています。 自分の上には一杯瓦礫がかぶさていたそうで、それをどけておき上がったら頭から一杯血が出ていたそうです。 持っていた風呂敷で止血をして、軍の自転車なので捨ててゆくわけにはいかないので、担いで避難所の方に向かったらしいです。知っている軍医がいたので治療をしてもらおうかと思ったが、怪我をした人が沢山集まってきていて、自分が頼めるような状態ではなかったそうです。
諦めて宇品の部隊に向かったそうです。 完全にではないが消毒をしてもらって縫ってもらったそうです。 昼頃には宇品の部隊に被爆した人がどんどん集まって来て総出で対応したそうです。 家の状況を見に一旦帰った部下の人たちが語るには、悲惨な状況を語る人が沢山いたそうです。 父も家に帰ることになったのですが、宇品から宮島に船で渡ったそうですが、市内は凄く燃えていて大変な状態になっていたという事でした。 下船してから救援のトラックと何台かすれ違ったらしいですが、亡くなったかは放り投げてゆき、負傷して歩いている方を乗せていくと言う様な状態だったと言っています。 自宅に戻ったら半壊の状態で誰もいなかったという事で、防空壕に向かったら母や私たちが無事だという事で、ホッとして虚脱状態になって、茣蓙のところに横になったと言っていました。 8日に部隊から迎えがあって行ったそうです。 部隊で治療を受ける人たちも食事はとれず水で2,3日過ごしたそうです。(父の手記を元にした内容)
父は67歳でなくなりました。 白血病の一種が発症したようです。 ノーベル平和賞については、私自身もよかったと思います。 妻と一緒に孫と被爆したところを見て回りました。 核兵器を廃絶するためには、我々が被爆証言をしっかりやって、世界の方々にも聞いてもらって、被爆資料館を観てもらえるように、そういう証言をしていきたい。