頭木弘樹(文学紹介者) ・〔絶望名言〕 水木しげる~没後10年~
水木しげるさんは鳥取県境港で育ち、21歳の時に太平洋戦争の激戦地のラバウルで左腕は失いますが、九死に一生を得て生還します。 戦後紙芝居作家を経て漫画家となり43歳で少年雑誌に登場すると一躍大人気作家となりました。 その後数多くの名作を発表し、2015年93歳で亡くなりました。
「家の二階には英語の原書を読む以外何一つしないで生涯を過ごした親類の叔父さんがいた。 彼と親父は大いに意気投合して金持ちの親類を前にしては金儲けがいかに愚劣かを、説くことを喜びとしていた。」 水木しげる(人生をいじくり廻してはいけない と言う本から)
水木さんは大正11年の生まれ。 江戸時代は廻船問屋をやっていてお金持ちだったらしい。 明治以降の鉄道が発達して大きな家は人手に渡ってしまった。 水木さんは働いているお父さんを見た事がないといっていました。 金儲けする人が多い中で、金儲けがいかに愚劣か、と言うような人がいると、どちらの価値観も絶対ではないという事に気付くわけです。 子供のころは周囲にいろいろな価値観が乱立している方が、いいと思います。
「今は随分つまらない。 おかしな大人を面白がる余地がうんと狭くなっている。」と書いています。
「私は小さいころから兎に角寝る事と食べることが大好きでした。 それも普通ではないくらい好きだった。 兄や弟は朝寝坊すると朝ご飯を食べずに学校に行く。 私はどんなに時間がなくても朝ご飯はゆっくりと食べる。 お陰で小学校の時には毎日2時間目からの登校でした。 もちろん先生には叱られましたが、肝が太かったせいか全然平気でした。」水木しげる(人生をいじくり廻してはいけない と言う本から)
戦場で病気してけがをしても、現地の人からもらった果物、食べ物で回復している。 食べる人間が生き延びるという事は本当なんだなと思います。
「小学校の成績は極めて悪く、上の学校は受ける事さえ教師が禁じた。」
高等小学校を卒業すると就職することになる。 いろいろのところに就職するが対応できずに辞めさせられる。 新ためて学校に受験するが、50人募集のところに志願者が51人で、水木さんだけが不合格となる。 面接で猫のくそをお菓子と間違えて食べたことがあるという話をしたと言いう事です。 社会に収まらない人は貴重です。
「小隊長はなぜおめおめと生きて帰ってきたと私を責め、それどころかお前も死ねと罵ったのだ。 」 水木しげる(人生をいじくり廻してはいけない と言う本から)
昭和18年、21歳の時に召集令状が来る。 水木さんは子供の頃は軍人に憧れていたようです。
「強くて勇敢なものが好きで、だから軍にもあこがれていた。」 (自伝)
「戦争は鉄砲を撃ち合うものだと思っている人だと思っている人はあるが、それまでの日常生活というものはとってもつらい。 わずかの米と塩と汁で365日過ごし、たまにかぼちゃの芽が入ったりするが、それで働くのは人の3人前、一時間の休みもない。 その上に毎日殴られる。 何で殴られるのか質問すると、半殺しの目に遭う。
「戦争はあんた死ぬような目にどころじゃない、みんな死ぬんですわ。」(インタビュー)
ラバウルに向かうがその船はいつ沈んでもおかしくないようなボロボロな船で、触ると金具がポロっと落ちるというんです。 (日露戦争の時の船) この船以降の船は皆撃沈されている。 この船も帰りには沈められている。 ラバウルについて決死隊に選ばれる。 或る時敵を見る役になり、思いがけない方向から敵がやってきて銃撃を受け、みんな死んでしまう。 水木さんは寝ずの番をやっていたので助かった。 渦巻く海に飛び込んだが、後ろから機関銃の射撃があった。 海から這い上がってようやく味方のところにたどり着いたら、先ほどの言葉を言われた。
「小隊長はなぜおめおめと生きて帰ってきたと私を責め、それどころかお前も死ねと罵ったのだ。 」 愕然とする。
次はマラリアに罹って42℃の高熱を出す。 爆弾が落ちて左手を大けがをして大出血をする。 その血を止めるために翌日左手を切り落とすことになる。
手術をした後はウジ虫が湧いて大変だった。 死にかけるが現地の人から食べ物を貰って食べて回復してゆく。 暫く経つと腕の傷跡から赤ん坊の匂いがしてきた。 なんだか生命が沸き上がって来る匂いだった。
「兵隊がどれだけ内地に帰りたいかという事は、それこそ筆舌には尽くしがたい事だ。 それは体験したものでないと判らぬとしか言いようがない。」 水木しげる( 水木しげる伝から)
「何度も自問自答を繰り返し、自分は生きて帰ったんだ事を確認してみた。 なんというか悟りを開いた高僧の気持ちと言うのか、生きていると言うただそれだけのことがめちゃくちゃに嬉しかった。」
「軍隊でない世界っていいものだなあ。」
戦後の世界でいろいろな職業に就いて働くがなかなかうまくいかない。 生きて戻ってきたが生活が苦しくて自殺した人が結構いた。 PTSD((Post Traumatic Stress Disorder)とは、命を脅かすような強烈な心的外傷(トラウマ)体験をきっかけに、実際の体験から時間が経過した後になってもフラッシュバックや悪夢による侵入的再体験、イベントに関連する刺激の回避、否定的な思考や気分、怒りっぽさや不眠などの症状が持続する状態を指します。日本語では“心的外傷後ストレス障害”といいます。)が大きかったのかもしれない。
「兎に角長年の貧乏は、あの半死半生の目に遭った戦争よりも苦しいほどで。」 水木しげる(「寝ぼけ人生」の中の言葉)
「紙芝居から貸本漫画と十数年飲まず食わずの生き地獄が続いた様な気がする。」 水木しげる
「こんなに働いてどうして貧乏なんだろうと情けないよりも不思議さが先に立つくらいだった。」 水木しげる
「税務署員がやってきた。 何事かと思えば、申告所得が余りにも少ないが、ごまかしがあるのではないか、と言うわけ。 だって現に所得がないんです。 ないんですといったって、生きている以上は食べてるでしょう。 これじゃあ食べていける所得じゃあありませんが、と食い下がる。 我々の生活が貴様らにわかるか。 僕が怒りと絶望とでかなり迫力のある声をあげると、その後税務署からは何も言ってこなくなった。」 水木しげる
「全く金のない人間には世の中は無情なもので、何一ついいことがない。 兎に角この貧乏を克服しなければ笑い声一つ上げられない。」 水木しげる
「貸本漫画がだめになりかけた頃、僕は40歳を過ぎていた。 もう僕も漫画家として陽の当たる存在になることは出来ないだろう。 そう思っていた。 雑誌など陽の当たる場所に40歳を過ぎた漫画家が登場した例などなかったからである。」 水木しげる
「そんな時永井勝一?夫妻がおかきを持って現れた。 ・・・今度ね ガロという本を出すんだ。 原稿料は1ページ500円出すよ。 」水木しげる
ガロが転機になる。 売れっ子になって忙しすぎる。
「才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。」水木しげる(水木しげるさんの幸福論)
「栄光や対価などに求めず、大好きなことに熱中する、それ自体が喜びであり、幸せなんです。 水木さんの場合は漫画を描くことだった。 その行為が金銭的に報われる方がいいに決まているが、結果の良しあしには運が付きまとう。」水木しげる
「好きだからといて成功するわけではない。 いくら情熱を傾けて努力をしても、報われない人はたくさんいます。 努力は人を裏切るという事も言っておくことです。 好きなことに情熱を傾けている間はきっと幸せな空気が漂っているものです。」 水木しげる
「世の中には人間の五感では捕まえられないものがいる。 世の中には見える世界のほかに見えない世界が広大無辺に広がっているのです。 そこには目に見えないものが沢山いる。 かつて妖怪が盛んに活動していた昔は現代にはない充実感のようなものが山野に満ち溢れていたようなのです。 その存在感が薄れると共に、どうも人間はつまらなくなったようです。」水木しげる