渡辺司(プロゴルファー) ・ゴルフこそ人生、いくつになってもやめられない! 前編
渡辺さんは日本のゴルフツアーの安定した実力派プレーヤーとして19シーズンに渡って、シード権を維持しながら2勝、更に50歳以上のシニア―ツアーではメジャー大会の日本シニア―オープンなどを含む5勝を挙げてきました。 今年68歳、現在もトーナメントに出場して活躍中です。
50歳以上がシニア―、60歳以上がグランドシニアー、68歳以上がゴールドシニアー。 今年の2月に68歳になりましたので、今年尾崎直道君と一緒にゴールドシニアーの大会に出ました。 尾崎君が優勝で僕が2位でした。 エイジシュートに挑戦する機会がありましたが、残りの3ホールでバーディー一つとれば達成できたのですが、ボギーが二つ続いて見事失敗しました。 ワクワク感はあります。
日大一高時代は野球部に所属し、アンダースローの投手をしていました。 控え選手で甲子園のマウンドに上がったことはないです。 父がスポーツ新聞の記者をやっていて、ゴルフを担当していました。 17歳からゴルフをはじめました。 私は料理が好きだったので調理人になりたいという気持ちがありました。 プロゴルファーを目指すのか悩みました。 18歳でゴルフ場に就職しました。 そこでは自由に遊び惚けていました。 プロテスト合格まで7回かかってしまいました。 (4年半) 師匠は青木功と言うスーパースターです。25歳のころに20試合トーナメントに出る月齢がありましたが、2個しか予選を通らなかった。 稼いだ賞金が40万円ぐらい。 一試合に経費が15万円かかるので全部で300万円かかります。 稼げるようになるために、栃木の山奥のゴルフ場に隔離されました。 これが僕を変えてくれた一番の転換点ですね。
何にもない所なので、時間をつぶすのには練習しかないんです。 グリーンを早くしてもらて練習したり、工夫していろいろなことをトライしました。 丸2年経った時に、試合で頑張れるようになって、シード選手になれました。 (1985年 30位) 最終ラウンドの残り3ホールでシード取れるかどうかという事がわかって、ガチガチになってしました。 最後のホールで80cmぐらいのパーパットを沈めれば大丈夫という状況で入れることが出来ました。 2位タイとなりシード権を獲得することが出来ました。
優勝は2回で、2位が17,8回ありました。 回りからは万年2位とか言われました。 ゴルフの夢は見ないが野球の苦しい夢は見るんです。 ゴルフは生活の糧なんだ、仕事なんだと思って、リスクは背負いたくないと言う方が強かったと思います。 両親、夫婦、子供で暮らせる家を建てようと思って、土地を見つけてローンを組みました。 ローン返済が完了するまで堅実なゴルフをしようと思いました。 「足して2で割るゴルフ」 ピンの位置は池の近くであるとか、難易度の高いところにピンを切るんです。 ご褒美は得られないがペナルティーも受けにくい。 「足して2で割るゴルフ」と言うのは真ん中とピンの真ん中を狙うんです。 チャンスをゼロにはしたくないが、ピンチも迎えたくない。 堅実なゴルフを目指したので2回しか優勝が出来なかったのかもしれません。
最初の優勝がプロになって13年目、35,6歳歳の時でした。 最終日、トップはアメリカのトム・カイト(その年の全米オープンチャンピオン)、2位が台湾のチン・シチュウでした。 13番ホールで単独トップとなる。 自分では結局は2位とか3位になるんだろうなあと思っていたら最終ホールまで来て、6~7mのバーディーパットでしたが、狙いたいが危険を冒したくないと思って、打ってカップのそばに来ました。 お先にといって先に打ってしまいました。(ウイニング パット) 柴田国明さんと言う元WBC世界フェザー級王者の方がいるんですが、「渡辺さん、僕が世界チャンピオンになれた最大の理由は、僕が臆病者だから。」と言ったんです。 「僕は誰よりも打たれたくなかったので、防御の仕方を人の何倍もやった。」と言っていました。 僕にも多少そういうところがあったのかなと思います。