2024年4月1日月曜日

石橋凌(シンガー・俳優)        ・デビュー45周年〜出会いと別れの繰り返し〜

 石橋凌(シンガー・俳優)      ・デビュー45周年〜出会いと別れの繰り返し〜

石橋さんは1956年福岡県久留米市の出身です。 高校時代からバンド活動を始めて、高校卒業後は至るあ料理の店でアルバイトをしながらプロを目指します。 1977年ロックバンド「ARB」のボーカリストにオーディションにボーカリストに選ばれ、1978年「野良犬」でデビュー、人気ロックバンドになります。  1985年俳優の故松田優作さんと出会い映画に出演、その後音楽活動と俳優業で活躍します。 1990年尊敬する松田優作さんの病死をきっかけに音楽活動を封印し、俳優に専念、アメリカを拠点に活動します。 1995年ショーン・ペン監督の「クロッシング・ガード」で演技が認められて、アメリカ映画協会の会員になります。 帰国後は音楽活動も再開します。 NHKでは1988年の大河ドラマ「武田信玄」では織田信長役、2020年の「麒麟が来る」では武田信玄役で出演します。 今年デビュー45年を迎えました。

私の場合は8割がた悪党か危ない役です。  今年でデビュー45年。 ちゃんと本質に沿った物つくりを手を抜かずにやってきたという自負はあります。 5人兄弟の末っ子で育ちました。 上4人の男の兄弟が好きな音楽のジャンルはバラバラでしたのでいろいろ聞いていまいた。   テレビのない時代で国内外の映画は良く観ていました。  私としては音楽と映画が学校と言う感じでした。今はそれを表現する方なので幸せです。   欧米から入ってきた文化なので、真似するだけではなくてちゃんと自分で反芻、消化して、それをまたオリジナルまで消化させるという事をやらないと、日本人は猿真似だと揶揄されると思う。 本物に近づきたいと言う思いでやってきました。 

中学1年生の時に父が亡くなりました。 母が女手一つで育て上げました。  5人の子を並べて「私は変わります。 貴方たちは自分が出来ることはやりなさい。」と宣言をしました。 看護師をしていました。  苦しい中レコード、プレーヤー、ギターなどを買ってくれました。 父親は良く「芸は身を助ける。」と言っていました。  音楽が好きなら音楽をやりなさいと言ってくれていたのかもしれません。 長男はフォーク系、次男はベンチャーズ、三男は黒人音楽、4男はビートルズ、ローリングストーンズなどに傾倒していました。 高校では音楽研究同好会に入りました。  高校2年の時バンドで、サンハウスの前座のチャンスを貰って、20分ほどやりました。そのころにはプロになりたいと思いました。  17~19歳までイタリアンレストランで働いていました。 ソロの話もあったが、バンドでデビューしたかった。

1977年ロックバンド「ARB」のボーカリストのオーディションを受けたのが、一つ目の分かれ道でした。  最初、歌詞に政治的、社会的なことは一言も入れるなと言われてしまいました。(自分の意には添わない。)  ラブソングを歌うように指示された。 しかしその時代は世界のどこかで紛争、戦争が起こっていた。 母親からは父が早く亡くなったのは戦争のせいだといつも聞かされていた。 自分の歌うテーマの一つは戦争でした。  自分の意見とか考えを交換できる音楽がロックミュージックだたのではないかと思います。 それが出来ないことが不自然で違和感がありました。  1970年代初期から、日本には本物のロッカーがいたと思います。 欧米に負けないテクニックの良さ、スピリットも持っていた。 しかしビジネスのマーケットに成立しなかったような気がする。 建前の音楽が主流になった。  

自分の中ではロックミュージシャンとかロックシンガーと言うのは辞めよう思いました。 理由は日本にはロックミュージックは根付かなかったという事が一つある。  何で一枚のアルバムにラブソング、家族の歌、世の中で起きている事、戦争の歌までが共存できないんだという、45年やって来て今でも感じます。 

武道館まで行きましたが、茶の間に入っていけないという壁にぶつかり、27歳の時には限界を感じました。  その時に松田優作さんに出会いました。 直感で自分が相談できる人はこの人だと思いました。  「土に穴を掘って種をまいて水をあげる、芽が出てきたら大事に育む、翌年も土に穴を掘って種をまいて水をあげる、芽が出てきたら大事に育む、という事を手を抜かずに大事にやってゆくしかないんだよ、俺たち表現者は」と言われました。 「それを見ている人が近づいてきたら、はじければいいじゃないか。」と言われました。 自分が信じていることを続けて行けばいいんじゃないかと思えました。 

半年後に松田優作さんから電話があり、「ア・ホーマンス.」と言う台本を渡されました。  殴られるのを覚悟で「バンドを茶の間に売る為の宣伝のためでいいですか?」と言ったら、3,4秒間が空いて「それでいいよ。」と言ってもらえました。 映画の現場に入って、自分の持ち続けた感性は違っていなかったんだという事は跳ね返ってきました。 今後のことを聞かれて、「音楽に関してはもう一回音楽を続けて行ける様な気がしました。」と言ったら、「俳優は?」と聞かれて、「もし自分にやれるようなものがあればやるかもしれません。」と言いました。 

松田優作さんが亡くなったことで大きな決断をしました。 松田優作さんからはいろんなことを学びました。 「合作映画で日本人の役を日本人が出来ないんだ。」、という事をいつも言っていました  ①SAG(Screen Actors Guild)という俳優組合に入れていない。  ②言葉の壁がある。 ③偏見、差別と闘ってゆくしかない。 このことをいつも松田優作さんは言っていました。 病気が発覚して、自分の中でもいろいろ反芻して、音楽を一旦封印して、ちゃんと俳優に向き合おうとしました。(34歳)

1995年ショーン・ペン監督の「クロッシング・ガード」ほか3本の合作映画に出演して、SAGに入れました。  アメリカで5年仕事をしました。 アメリカでは演技に関しては監督は何も言いませんでした。(表現が自由に出来る。)  映画ではその役柄の男で現場に来なさい、カメラの前に立ちなさいという事だったんです。 チャンスがあれば海外で歌ってみたいという事は今の夢です。