西巻茅子(絵本作家) ・〔人生のみちしるべ〕 小さな子どもの大きな不思議
西巻さんの初期の代表作の一つ「わたしのワンピース」という絵本、お子さんやお孫さんと一緒に読んだ、今まさしくお気に入りで読んでいるという方もいらっしゃると思います。 今年で発売から55年、西巻さんにとって3冊目の絵本でした。 西巻茅子さんは昭和14年東京の生まれ、今月85歳になります。 東京芸術大学工芸科を卒業、学生時代から版画、リトグラフを手掛け、卒業後、日本版画協会展に出品し、新人賞、奨励賞を受賞。 当時は日本の絵本の創成期、西巻さんの新鮮な版画の作品は絵本の関係者の目にとまり、絵本つくりの声がかかります。 絵本作家となって60年、去年絵本つくりから引退したという西巻さんにお話を伺いました。
仕事を辞めて、それまでずーっと締め切りがある暮らしを続けてきたので、辛いなあと思っていましたが、今はホッとしています。 凄く気ままです。 デビューが昭和42年、28歳で、『ボタンのくに』と言う作品でした。 平凡社の給料がよかったので試験を受け就職することになりました。 しかし本採用通知が来なくて、電話をしたら「入社できないことになった」という事でした。 社長は3名では多すぎるからという事で入社は出来ないという事でした。(成績は1番だったが、男子1名、武蔵野美大は落とす訳にはいかない事情あり、と後で聞く。) でも雑誌の仕事を貰ってそれからずっとフリーランスでやって来ました。 長 新太さんの絵本を見て綺麗な本だなあと思いました。 子供のころは絵本などは観た事がありませんでした。
絵本の仕事が出来るかもしれないと思いました。 父が自宅で子供に絵を教えていて、手伝ったりしていたこともありました。 幼稚園で子供のアトリエとして教えていました。(毎週土曜日) 子供たちが素晴らしい絵を描くことには吃驚しました。 人間は絵を描く動物だったんだと思いました。 母はお嬢さん育ちで、洋裁学校に行ったりテニス、ダンス、ピアノなどやってモダンガールでした。 父と結婚して洋裁をやって稼がなければいけなくなった。 父は絵を描くが金にするという事はやらなかった。 世のなかと美術はどういう関係になっているのか知りたかった。 結局は心の問題だという事が段々判って来ました。 あの子供たちの様に私も心の底からの絵を描かなければいけないんだと思いました。 デッサンは絵画の勉強方法に過ぎなくて、それを全部やって良い絵が描けるのではない。 だから全部忘れようと思いました。
三作目の「わたしのワンピース」はロングセラーとなりました。 私の絵本の中で一番売れている本です。 白いウサギが主人公で、或る日空からフワフワっと落ちて来た白い布で、ウサギがミシンでワンピースを作りました。 ワンピースを着て出かけて行くといろんなことが起きるという、ファンタジーの絵本です。 1冊目、2冊目は絵本がどういうものかあまり知らないで描いていました。 絵描きしか描けないような絵本を作りたいと思いました。 3冊目はそういった思いで作りました。 編集会議では白いワンピースが花模様に描かれたり、水玉模様に描かれたりすることに対して問題視されました。 私の意見に対して賛成の人はいませんでした。 結局西巻さんが言うならそうしましょうという事に社長が言ってくれました。 しかし本が出来ても誰も褒めてはくれませんでした。
5,6年経ってから新聞に、常に貸し出し中の本という事でこの本が紹介されました。 私は一番うれしかったです。 一時期は絵本を描くことを辞めようと思ったこともありましたが、辞めないでよかったと思いました。 大人が判っていない、子供たちは判ってたんだという感じです。
「えのすきなねこさん」 講談社出版文化賞、絵本賞を受賞。 父が亡くなって絵の道具を私の家に持ってきました。 それを見ながら絵描きさんの猫を描こうかなと思いました。 「絵なんて何の役に立つのかな。」と言った言葉が何回も出てきます。 猫は「僕は絵を描くことが好きで上手で本当に良かったと思いました。」と言います。 家の父もそう思っていたと思います。 人間は歌を歌ったり、ダンスをしたり、詩を詠んだり、という事を昔からやってきています。 それは人とのコミュニケーションでしょう。 芸術はみんなコミュニケーションだと思います。 言葉ではない、心と心を繋ぎ合わせるためのものだという事が判りました。 子供が好きだという事は心が喜んでいるわけです。 道しるべ、父の後を追ったと言えば、追ったんでしょうね。 それと「女だてらに」と言う言葉が有りますが、「女だてらに」頑張ってきたと思います。 お金を稼いで自分の力で生きて来たかった。 絵本が子供の心に伝わればそれでいいと思っています。