幸田延は明治3年(1870年)生まれ。 日本で初めてクラシック音楽を学ぶために海外留学を果たし、ピアノ、ヴァオリン、声楽、作曲をも身に付け、帰国後は多くの音楽家を育てました。 いわば日本のクラシック音楽の世界の草分けと言うべき存在です。 お話は音楽評論家の萩谷由喜子さんです。 萩谷さんは日本におけるクラシック音楽の歴史、特に女性の音楽史を研究しています。 2023年延の伝記として「幸田延」を出版しました。
幸田延は明治時代の音楽のスーパースターになりました。 若い時に今の芸大(文部省音楽取調掛)の音楽教授にもなりました。
幸田延は明治3年(1870年)東京生まれ。 幸田家は江戸城の表坊主(お茶坊主)と言う役をしていました。 お茶の接待もありますが、登城してきた大名たちに対して、将軍、老中に面会するときに、しきたり、作法を教えます。(大名たちへのマネーの先生) 明治維新で大蔵省の下っ端の役人になる。 先が見えない中いい教育をさせようと、兄弟姉妹(6人兄弟)にいい教育をさせました。 兄が3人で4番目が延です。 長男は実業家、次男は海軍の偉い軍人、3男が幸田露伴。 まず長唄を習う。 1876年(明治9年)に東京女子師範学校附属小学校(現:お茶の水女子大学付属小学校)に延を入学させる。
明治政府が招聘したアメリカ合衆国の音楽研究者、ルーサー・ホワイティング・メーソンが1880年(明治13年)に来日し、文部省音楽取調掛(のちの東京音楽学校、現:東京芸術大学)に雇用された。 延が通っている東京女子師範学校附属小学校にも来てくれた。 延の才能を見出したメーソンは延にスクエアーピアノを習わせる。 卒業後研究課程(今でいう大学院)に進むとともに助手の先生となる。(14歳) 給料ももらえたので、文学志望の兄露伴に小遣いをあたえていて、二人は仲が良かった。 文部省音楽取調掛は東京音楽学校に格上げされて、優秀なものをヨーロッパに派遣して本場の音楽を学んできて、成果を学校に広めていくという事で延が選ばれた。(音楽留学生第一号)
ボストンで1年間勉強してメーソンとも会っている。 その後ヨーロッパに行く。 留学先に入学するためには実技はしかり、語学(ドイツ語)もやらなければいけなくて大変だった。 合格して、ピアノ、ヴァオリン、学理、声楽、作曲などいろいろ学ぶ。 一番大変だったのは音楽史だったようです。 ウイーンで5年学んで、いろいろ習ったものが、卒業する時には全部「1」のランクの成績を取りました。
日本に帰国する事になり(25歳)、直ぐに教授として迎えられた。 翌年帰朝音楽会が行われた。 メンデルのヴァイオリン協奏曲を独奏、ブラームスの歌曲をドイツ語で2曲歌う、弦楽四重奏のリーダーとして第一ヴァイオリンを担当してハイドンの弦楽四重奏曲を演奏、ゲストで来ていたクラリネット奏者の方のピアノ伴奏を引き受ける、バッハのフーガを弦楽合奏用に編曲して生徒たちに弾かせています。 一回の音楽会で一人で全てやっているわけです。 作曲はウイーン時代にヴァイオリンソナタを2曲作曲しました。 日本人が書いた初めてのソナタです。
*ヴァイオリンとピアノのためのソナタ 第二番ニ短調 作曲:幸田延
生徒には瀧廉太郎、三浦環などがいた。 森鴎外とも親交があった。 当時の新聞が最初音楽学校批判が出始めて、段々延に対する個人攻撃となってゆく。(実力があり過ぎる事に対する妬みなど) 延を東京音楽学校から引きずり下ろす何かに力が働いた様です。 依願休職をして、直ぐにヨーロッパに私費で旅立ちました。 目的は三つあって①ヨーロッパの第一線の音楽家たちの演奏会を沢山聞いて、啓示を得たい。 ②自分の音楽力をアップしたい。 ③最新の音楽教育現場の様子を視察する。
帰国後、音楽界に復帰は無理だと自覚していたので、一般の家庭への音楽の普及という事を始める。 ピアノの稽古場を始める。 露伴が「審声会」と言う名をつけてくれる。
*4手のための連弾小曲 作曲:幸田延 (教育用)
関東大震災、戦争など体験したのち、1946年姪や親族、2人の弟子に看取られながら心臓病で死去、76歳没。 お経の代わりにバッハの平均律クラヴィーア曲集の第8番の前奏曲が好きなので、これを弾いて欲しいと弟子たちに言い残したそうです。