2024年4月10日水曜日

川島良彰(実業家)            ・最高の一杯を世界へ〜コーヒーハンターのあくなき挑戦

川島良彰(実業家)       ・最高の一杯を世界へ〜コーヒーハンターのあくなき挑戦 

自然環境と人権を守りながら生産者の市場を作り、維持するのが私の使命と語る、1年のうち1/3以上を海外で過ごして50か国2500以上のコーヒー農園を知るという「コーヒーハンター」こと川島さんのお話を伺います。 川島さんは静岡のコーヒー焙煎業の卸の長男として生まれて、小学生のころからお父さんの焙煎をそばで見てコーヒーを味わってきました。   反対を押し切って18歳で単身南米エルサルバドルに渡って、国立コーヒー研究所に入所、コーヒー栽培と精選を学び、帰国後は大手コーヒー会社に入社して農園開発?に携わって来ました。 そこを退職後スペシャルティーコーヒーと呼ばれる最高品質のコーヒーを日本で紹介する会社を立ち上げて世界の農園開拓?を行いながら、コーヒーの美味しさと楽しさを伝える活動を今も続けています。 その川島さんの行動力を支える信念とはどういうものなんでしょうか。 

フルーツ感を生かすにはあんまり煎らないようにして。コーヒー本来の甘さを感じていただけるような焙煎具合にしています。(薄い茶褐色の透き通るような感じ 苦味とかえぶみ?みたいなものが全然ない。)  うちは完熟豆しか扱っていないので、すっきりしたのど越しのいいコーヒーになります。 色を見ると薄いような感じがしますが、密度の高いコーヒーなのでしっかりと・・?に感じていただけると思います。 これこそ本当のコーヒーです。 コーヒーはフルーツだと実感していただけるようなコーヒーを飲んでいただければと思います。 

今13か国からコーヒー豆を買っています。 70か国ぐらいはコーヒーを生産せていると思います。 赤、黄色、ピンクに実りますが、熟したコーヒーの中に種が二つ入っていて、種を焙煎して粉砕して抽出するのがコーヒーです。 うちで使うコーヒーは全て産地に行って生産者に会って、畑を見て、うちのスペック通りのものを作れるかどうか確認をして、生産者と一緒に作ってもらっています。 自然環境は非常に重要です。 寒暖差が激しいほど密度の高い美味しいコーヒーが出来ます。 高級、中級、低級品と有るとしたら、それぞれで美味しいコーヒーは獲れるわけです。 それぞれのグレードでいいものを作ろうとしています。 

今の会社を立ち上げたのは51歳の時です。 ホームページには「自然環境と人権を守りながら生産者の市場を作り、維持するのが私の使命」と書かれています。 僕がエルサルバドルに行った年はエルサルバドルがコーヒー生産が世界3位になった年でした。(1975年) 四国よりちょっと大きいぐらいの国ですが、技術が凄く進んでいます。  1975年にブラジルで霜が降りて、コーヒーの価格が7倍程度になりました。 お金持ちだけが利益を受けて貧富の格差が広がり内戦に突入しました。 僕がいたエルサルバドルの研究所も跡形もなく亡くなってしまいました。 世界3位だったのが1/10ぐらいしか獲れなくなってしまった。 2001年から2003年にかけてコーヒークライシスと言わrて時期がありました。  大暴落してしまって、コーヒー農家がやって行けなくなってしまった。 (マネーゲーム対象になってしまった。)  

日本はそういった生産者に対して何もしなかった。 二つの経験から僕らは美味しいコーヒーを飲めなくなるんじゃないかと思いました。 生産者がちゃんと暮らせるような市場を作るのが、僕らコーヒーマンとしての仕事ではないかと思って、この会社を2008年に立ち上げて、国際価格と関係なくして、生産者の人に理解していただき、品質に見合った価格で買うような市場を作ることが必要と思って、この会社を作りました。 自然環境、人権と言う事も大きなテーマになっています。 

父が砂糖とミルクの入ったコーヒーを作ってくれて幼稚園ぐらいから飲んでいました。  中学から自分でサイフォンでいれて飲んでいました。 コーヒーに囲まれて育ちました。  小学生の頃には生産地に行ってみたいと思うようになって、ブラジル大使館に手紙を書いて、 ブラジルのコーヒー園で働きたいが、相談に乗ってくれと出しました。 ブラジルのコーヒー鑑定士の資格を取るのが、コーヒー屋の跡継ぎの王道みたいな感じがありました。 父はそれを期待していたが、僕は栽培から勉強すれば、自信をもってお客様に提供できると考えていました。 高校卒業後留学することになりました。 父はクオリティーを重視していました。

今では世界第4位(アメリカ、ブラジル、EU、日本)のコーヒー消費国ですが、当時は日本はニューマーケットと言われていて、良いコーヒーは入ってこなかった。 父は豆を選別して品質にこだわっていました。(当時日本ではそんなことはしていなかった。) 1960年代母がコーヒー店を始めて、そっちの方が当たりました。 

父が視察団として出かけて帰ってきたら、突然「メキシコに行くか。」と言って来たんです。 父は駐日エルサルバドル大使と親しくなって、メキシコへの伝手の話などしたら、エルサルバドルに来いという事になり、1時間後にはエルサルバドルに行くことが決まりました。  大使の妹さんのところに下宿することになりました。 大使にはエルサルバドルの貧民街を案内されました。(多くの人たちの生活状況を目の当たりにする。) 大使からは①どんな時にも対応で来るようにいつも準備しておきなさい。 ②ストリートスマートになりなさい。(生きのびることにかしこくなれ。)この二つを言われました。 この二つの言葉のお陰で今まで無傷で来られたのも、困難を乗り越えられたと思っています。

大学に通って、その後国立コーヒー研究所を訪ねました。 アポなしで行って所長にあったら、警備員に放り出されました。 毎日一か月間通って、日本人の最初で最後の研究生として受け入れて貰えました。  ものが無い国なのでものが無かったら自分で作るし、労働者たちは自分でなんか対応してゆく力は凄いと思いました。  労働者たちからいろいろ聞いて勉強になりました。 彼らの1/10も収穫できなくて能力の低さを痛感しました。 エルサルバドル人は凄く親切で、優しくて、おせっかいなぐらい人のことを気にしてくれ、働き者です。 75年行って77年ぐらいから政情不安になってきて、79年には革命が起きて81年には市街戦が起きるようになって、国立研究所なのでゲリラにも狙われました。 政情が安定するまで外に行った方がいいと言われて、ロサンゼルスに行きました。 

日本に帰らずロサンゼルスに行たのは、栽培が面白くなってしまって、父の焙煎卸業を継ぐ気がなくなってしまって、産地で生きるからと両親に手紙を書いたら、勘当されてしまいました。 そこで大手のコーヒー会社からスカウトされて、ジャマイカに行きました。(25歳)  いきなり3億円使って3か所の農園を作れと言われて、凄いプレッシャーでした。 ジャマイカの人口の95%以上がイギリスの植民地時代に奴隷として連れてこられた人たちなので非黒人に対して猜疑心が凄かったんです。(独立して19年目)  技術は遅れていました。 何故日本人に教わらなければならないのかという思いが強くて、信頼を得るためには苗のクオリティーの違いを見せつけることから始めて、技術的な信頼を勝ちとることが必要でした。 もう一つは人間としての信頼関係を築かなければいけなかった。 一緒に酒を飲んだりパンチパーマにしたりしました。  

ジャマイカは治安が悪くて、エルサルバドルより怖かったです。 麻薬、強盗、殺人発生率も高かったです。 身の危険をしょっちゅう感じていました。 でも怯む訳にもいきませんでした。 1988年9月20世紀最大と言われたハリケーンにジャマイカを直撃しました。  その時には農園が全滅しました。 僕の住む家も全て亡くなってしまいました。  焦燥感とどうしようもいない状態でした。 治安もさらに悪くなりました。 ハリケーンで亡くなった人よりも略奪で死んだ人の方が多かったですから。 眠れなくてラム酒を2日に一本飲んでいました。 必死で半年で農園を復活させました。 コーヒー園は自分の命とおんなじだと思っています。  コーヒーが好きだからできるので、世の中の人にコーヒーをもっと知って欲しいという気持ちはあります。 必ず産地に行ったら新しい発見があります。 それがあるからどんな辛い旅でも我慢が出来ます。