頭木弘樹(文学紹介者) ・〔絶望名言〕 清少納言
平安時代の中期の女性で「枕草子」として有名です。 NHK大河ドラマ「光の君へ」の登場人物の一人でもあります。
「春はあけぼの ようよう広くなりゆく山際 すこしあかりて 紫立ちたる雲の 細くたなびきたる」 清少納言
「枕草子」は世界最古のエッセー文学とも言われています。 鴨長明の「方丈記」、吉田兼好の「徒然草」と並んで日本の3大随筆の一つとも言われています。 清少納言はいつ生まれて何時亡くなったのかははっきりしていない。 一説では1025年に亡くなったという事で、来年が没後1000年になります。 清少納言は一条天皇の后の藤原定子に仕えていた女房(宮廷や貴族の屋敷で働いている女性のこと)です。
当時は自分の周りに気の利いた女性、女房たちを集めてサロン文化を形成していた。 清少納言は定子のサロンで大活躍をしていた。 枕草子で清少納言をイメージしているが、実際はそうとは限らない。 枕草子を書いた時期は定子が没落していて、かなりつらい状況だったようです。 山本淳子先生の書いた「枕草子のたくらみ」には定子や清少納言が実際にはどういう状況だったのかという事が書かれていて衝撃的でした。
当時、藤原氏が政治の実権を握っていた。 トップに立っていたのが藤原道隆で自分の娘の定子を一条天皇の后にします。 その子供が次の天皇になれば自分は天皇の祖父になれる。一条天皇と定子はとても仲が良かった。 定子のサロンに参加したのが清少納言だった。 1年半後に藤原道隆が43歳で亡くなってしまう。 藤原道隆の息子と藤原道長(藤原道隆の弟)とのし烈な権力争いが始まります。 定子の兄や弟が負けて地方に流罪となる。 藤原道長が勝利する。 定子は出家してしまう。 家も火事で焼けてしまう。 母親の貴子も亡くなってしまう。 清少納言は道長の側に内通したと疑われた。 清少納言は仕方なく実家の戻って籠もってしまう。 「枕草子」はどうもこの時期に書き始められたようだ。清少納言はきらきら輝いた時期のことを描いた。 明るい言葉の裏に隠された絶望を読み解く。
「宮に初めて参りたるところ ものの恥かしきことも数知らず 涙も落ちるべければ 夜夜まゐりて 三尺の御几帳(みきちょう)の後に侍ふに、絵など取り出で見せさせ給ふを、手にてもえさし出づまじう、わりなし。 「これは、とあり、かかり。それかかれか」などののたまわす。」 清少納言
これは清少納言が始めて定子のところに出仕した時の一節。 定子に初めてお仕えしたころ、恥かしい事ばかりで涙がでそうなので、定子のところには夜に行って三尺の御几帳(みきちょう)(部屋の間仕切りの為目隠しに使うもので布を垂らしてあってその後ろに隠れることができる。)の後ろに隠れて、定子が絵などを見せてくれる。 私は手を出すことも出来なくて、どうしたらいいかわからない。 定子は色々説明してくれる、と言う様な内容。
清少納言の自慢話は自分自身を褒めているわけではなくて、は実は定子をほめている。 最初の出仕のころは定子が17歳ぐらい、清少納言は28歳ぐらいと言われている。 定子は漢文にもたけていて教養があった。 漢文の知識も隠さなくてもいい自由なサロンだった。
「世の中の腹立たしう、むつかしう、片時あるべき心地もせで、ただいづちもいづちも行きもしなばやと思うに、ただの紙のいと白う清げなるに、よき筆、白き色紙陸奥など得つれば、こよなう慰みて、さはれ、かくてしばしも生きてありぬべかめり、となむおぼゆる」 清少納言
紙について清少納言が他の女房達の前で話しているところ。 世の中に腹が立って生きていることが厭になって、どこかに行ってしまいたくなるような時でも、ただ真っ白で綺麗な紙が手に入ったら、すっかり気分が良くなって、もっと生きていていいかなと言う風にも思える、と言うような内容。
当時はいい紙が貴重だった。 実家にこもっていたころに定子から沢山の紙が送られてくる。
「ねぶたしと思ひて臥したるに 蚊の細声にわびしげに名乗りて、顔のほどに飛びありく。羽風さへ、その身のほどにあるこそ、いとにくけれ」 清少納言
眠くて横になったのにせっかく眠くて横になったのに、蚊がやって来て「ぶーん」と羽音をさせて顔の当たりを飛び回る。 小さな体の癖にちゃんと羽風まで感じられるのはひどく憎らしい、と言う内容。
憎きものとして蚊だけではなくていろいろ書かれている。 そのほかに美しきものとか、すさまじきものとかいろんなものがあって、楽しいですね。
「三条の宮におわします頃、五日の菖蒲の輿などもて参り、薬玉など参らせなどす。若き人々、御厘殿など、薬玉して姫宮・若宮に着け奉ら給ふ」 清少納言
「枕草子」に描かれる定子の最後の姿です。 5月5日の節句 この年の12月16日に24歳の若さで亡くなる。 ここでは菖蒲とかくす玉が出てくるが、皇后だからこそ送られるものだそうです。 最後まで后らしく輝いていたことだけを清少納言は書いている。 定子の死を直接は書かない。
一条天皇は出家した定子を回りの反対を押し切って呼び戻し、皇女の次の皇子が生まれる。 次の天皇になってしまう恐れがあるので、道長は自分の娘の彰子を一条天皇の后にする。(后が二人という異例の事態) その年の暮れに二人目の皇女の出産直後に亡くなる。 その後彰子が皇子を出産して、後一条天皇になる。 清少納言は没落してゆく定子のそばにずっといたわけです。 道長にとって敵対している定子を賛美している「枕草子」がどうして許されたのか、不思議なところです。 定子が亡くなると道長は怨霊におびえるようになった。 「枕草子」は道長や貴族を責め立てたりはしなかった。 定子の生き生きとした姿を描いているだけです。
「ただ過ぎに過ぐるもの 帆をかけたる舟。 人の齢(よわい) 春、夏、秋、冬」 清少納言
ただ過ぎてゆくものは帆を掛けた船であり、年齢であり、春、夏、秋、冬という四季の移り変わりである、と言う内容。
没落していった無常観みたいなものが込められている。 定子が亡くなった後の清少納言のことはよくわかっていないようです。 清少納言が去ってから5年後に彰子の元に来たのが紫式部です。 紫式部は清少納言のことを辛辣に書いている。(得意がっている、利口ぶっていると。)
源氏物語は「哀れ」の本、枕草子は「おかし」の本と言われるが、「哀れ」を記載する部分も後半にある。
「日は入日(いりひ)」 入り果てぬる山の端(は)に 光なほとまりて赤う見ゆるに、薄(うす)黄(き)ばみたる雲の、たなびきわたる、いとあはれなり。」 清少納言
(全体に聞き取りにくく疲れた。)