坂嵜潮(個人育種家) ・〔心に花を咲かせて〕 人は育種の名人というけれど
坂嵜さんは世界的に有名な育種家で、最初にその名前を知られたのはペチュニアの画期的な新品種を作ったことでした。 ヨーロッパを席巻したとまで言われたその花の爆発的なヒットは、今でも語り草になっています。 その後もこれまでにない花を作り出し、ガーデニングの世界を変えた人とも言われます。 坂嵜さんの育種はどんなもので、いかにして世界的な育種の名人になったのでしょうか。 そもそもなぜ育種世界に入ったのでしょうか。
交配をして新しい品種を作るという仕事です。 花の育種は普通は温室のなかに素材があって、その中から親を選んで交配をしてゆくことですが、私が常に心掛けているのは、野生に存在している草花、その自然らしさ、力強さをなるべく生かした品種が出来るように努力しています。 人があまり手を加えると人工的な花になってしまうので、手を加え過ぎないように努力しています。
ペチュニアを沢山花を咲かせて丈夫な花にして「サフィニア」と言う名前をつけ、ヨーロッパ中に広がりました。 それまで使われていなかった野生種を交配して、野生の血が半分入ったようなペチュニアを作ってみたら、凄く元気で病気にも強くて生き生きとした力強い品種が出来ました。 今までは温室の中での交配をしてきていました。
大学を卒業した時には、果樹と野菜の栽培の研究室だったので、ブドウを生産してワインを作るというような研究室に就職することになりました。 1984年ごろにブラジルでワインを作るというプロジェクトがやられていて、その研究に行ってくれと言う話がありました。 1年半で上手くいかずに止めることになりました。 道路を走っていたら道路わきに ペチュニアの原種でした。 日本に持ち帰って品種改良のスタートをしました。 当時はバイオテクノロジーブームでした。 京成バラ園芸との共同研究チームが編成され、新品種づくりがはじめられることになった。 そして「サフィニア」ができました。
それまでは品種改良は全然やったことはありませんでした。 プロジェクトを立ち上げた育種家が薔薇の育種家の鈴木省三さんが向こうのリーダーで、面白いから一緒にやろうという事になりました。日本に帰ってからはワインの研究からは外れました。 1986年の春に始めて、実際の交配の仕事は千葉の方でやって、一番いいものを選ぶ意見が鈴木さんとぴったり合いました。 選ぶよりもいかに捨てるかが難しいです。
ヨーロッパではバルコニー、窓辺にプランターを置いて育てるというのがポピュラーです。 ゼラニウムと言う植物が一般的でした。 それに代わるものとしてペチュニアが入ってきました。 「サフィニア」が沢山窓辺を咲かせました。
「カリブラコワ」、ペチュニアの小さな花も作りました。 原種を集めるところからスタートしました。 世界中で植えられるようなポピュラーな植物になりました。 育てやすくて、花は小さいが物凄く沢山花が咲きます。 鮮やかな黄色、オレンジとか花の色のバリエーションではペチュニアをぬいてしまいました。
この原種が欲しいというのは文献などで調べて出かけますが、行けば必ず出会っています。 もう40年近くやっていて学びの旅ですね。 めげたことは山ほどあります。 10ぐらいのプロジェクトで計画を立てて、ちゃんと前に進むのは1割もないですね。
45歳で独立しました。 大学3年の時に休学してドイツに留学しました。 父親から若いうちに海外に行ってこいと言われました。 ペチュニアを介して海外の人との交流も増えていきました。 ワクワクするような新しい品種が欲しいという事は変わらないので、自然らしさが感じられるような品種を作って提供できればいいなあと思います。
2018年 世界的に権威のある「チェルシー・フラワー・ショー」でゴールドメダルを取りました。 枝垂れるような枝に一杯花が咲く紫陽花。 或る程度はそのイメージは考えていました。 でも出来ちゃったという感じです。 四国の山で野生の紫陽花を見つけました。 交配して作ってみたら吃驚しました。 3年ぐらいで最初の花は咲きました。出会った時にポッと引き出しから出てきてくれる。 引き出しを多く持つという事はプロとして一番大事です。
自分の考えに基づいて品種改良は進めるわけですが、組み合わせを進めて行くと新しい性質のものが突然飛び出したりして来て、自分が全て品種改良を出来ているみたいな、万能感みたいなものを持つことが時々あるんです。 それは凄く幸せな感覚です。 逆に植物に利用されているみたいに思う時も感じます。 植物は人間を利用して進化している、と言う考えもあるんです。 自然の中にある力を尊重して、その中にある多様性を引っ張り出していこうというようなことを考えています。
自分の価値観で改良を進めてしまうと、やはり人工的になってしまう。 そこを繋ぐような仕事をしたいと思います。 人間が自分たちのアイディアに基づいて、人工交配で品種改良を進めるようになったのは、1800年代の中ごろだと思います。 父は植物園の関係の仕事をしていたので、日本の厳しい気候のなかでも育つ熱帯花木にはどういうものがあるのか、それはどういう風に使えるのか、と言う本をみんなでやったんだと思います。 父は76歳の時に「日本で育つ熱帯花木植栽辞典」を出しました。 10年以上かかっているかもしれません。
まだ使われれていない新らしい品種を捜して、感動してもらえるようなものをもう一つ二つ作っていきたいと思います。 良いことも悪いことも必要だから起こっているという風に考えて、悪いことも必要な事として起こっていて、それを乗り越えてゆくために起こっている、と言う風に感じています。 受け入れるという事だと思います。