2024年2月26日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 ~二十四の瞳から~

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 ~二十四の瞳から~ 

二十四の瞳」は作家壺井 が1952年(昭和27年)に発表した作品で1954年に木下監督高峰秀子主演で映画化され大ヒットしています。 

「幼い子供等は麦飯を食べて生き生きと育った。 前途に何が待ち構えているかを知らず、ただ成長することが嬉しかった。」  (「二十四の瞳」)

代表作には「二十四の瞳」のほかに、『母のない子と子のない母と』、『柿の木のある家』などがあります。 1899年(明治32年)生まれ。壺井 栄は祖母から昔話、子守り歌などたくさん聞いて育った。 素直な文章で朗読には向いている。 「下積みの人たちが激しい生活の中に秘めている深い怒りや悲しみを、その人たちにも読まれるように書くことが深淵になっている。」と言っています。 壺井 栄自身も大変な貧乏、病気で苦労しています。 

「二十四の瞳」は小さな島の岬の分教場に新任の若い女性の先生がやって来て、1年生の12人の子供との交流を描いた作品です。 壺井 栄も小豆島出身です。 山、川、海があり温暖で日本で最初にオリーブを栽培したところです。 昭和3年から昭和21年までが」描かれている。 

「幼い子供等は麦飯を食べて生き生きと育った。 前途に何が待ち構えているかを知らず、ただ成長することが嬉しかった。」      (「二十四の瞳」)                    この言葉は読み終わってから見ると非常に胸に応えます。 

「女子のくせに自転車に乗ったりして。」    (「二十四の瞳」)           先生が自転車に乗ってやって来る。 生徒の言葉です。  今では当たり前のことですが。 規範から逸脱することが気に食わない。   大石先生の自転車以来、女の自転車もようやく流行り出してくる、という事になってゆく。   

「生意気と言われてけなされた彼女の洋服や自転車は、それがきっかけとなって流行り出し、今では自転車に乗れぬ女は無いほどだ。 だが20年近い歳月はもう誰も若い日の彼女を覚えたはいまい。」                                    ルールからはみ出して決まりを破って、それでようやく世の中が変わってゆくわけです。  でもその最初の人は非難されてしまう。  世の中が変わった時には忘れられてしまう。

「戦争は自転車迄も国民の生活から奪い去って、敗戦後半年の今、自転車は買うに買えなかった。」                                         

「私は女に産まれて残念です。 私が男の子でないのでお父さんは」いつも悔やみます。」 これは紫式部も言っています。  長い間女性は嘆かなければならなかった。 

「選挙の規則が改まって、普通選挙法というのが生まれ、2月に第一回の選挙が行われた。 2か月後のことになる。」 (「二十四の瞳」の冒頭の文章)                      昭和3年2月20日の第一回普通選挙、満20歳以上のすべての男性に選挙権が与えられた。 女性には選挙権がなかった。 女性に選挙権が与えられたのが昭和21年4月10日の選挙です。(戦後)   

「泣きたいときはいつでも先生のところにいらっしゃい。 先生も一緒に泣いてあげる。」                       (「二十四の瞳」)                                 1954年には映画が公開された。「七人の侍」「ゴジラ」(第一作目)も公開された。       木下恵介監督は原作を重視する監督でした。  戦争の影響はまず不況と言う形でやって来る。 貧しい村です親が娘を売るようなことが起きてくる。 大石先生の生徒も売られてしまう。 

「今日の一家の命を繋ぐために、冨士子は売り払われたのだ。」 (「二十四の瞳」)  この時に大石先生がかけてあげた言葉が、「泣きたいときはいつでも先生のところにいらっしゃい。 先生も一緒に泣いてあげる。」でした。 不幸は人を孤独にさせる。     孤独だけでも癒してもらえればどれだけ助かるか。 人生にはどうしようもないこともある。 そういう時には泣くことが物凄く大切です。

「沖縄の惨劇にも広島、長崎の原爆にも渦中にいなかった日本人は他人事の様に涙を流さなかった。 涙が足りなかったのである。 それほどざらざらした世相だった。」山下恵介監督   

*「故郷」   作詞:高野辰之  作曲:岡野貞一                 

 「うさぎおいしかのやま・・・」とあるが、当時日露戦争で子供たちにうさぎを取らせて、その毛皮を寒い戦地に送るためにやっていたといことです。 そうすると大分印象が違います。 

「病気になっても村に医者はいなかった。 良く効く薬もなかった。 医者も薬も戦争に行っていたのだ。 おばあさんが亡くなった時には村の善宝寺?さんまでが出征して留守だった。」   (「二十四の瞳」)                         

成長した生徒たちは徴兵されて戦場に行きます。 戦死したり障害者になったりする。 

大石先生にも子が出来るが青い柿の実を食べてなくなる。              「近年村の柿の木も栗の木も熟れるまで実が成っていることがなかった。 みんな待ち切れなかったのだ。  子供等はいつも野に出て「つばな(茅花)」を食べ「いたどり(虎杖)」を食べ「すいば(酸葉、蓚)をかじった。 土の付いたサツマイモを生で食べた。」  

子供の御棺を作るのにも木材がなく古いタンスを利用して作る。

「一家そろっているという事が子供に肩身の狭い思いをさせる程、どの家庭も破壊されていたのである。」   (「二十四の瞳」)         学徒は動員され、女子供も勤労奉仕に出る。  それが国民生活だと大吉たちは信じた。  戦争で亡くなった家には門のところに門標が飾ってあって、それは名誉なことされた。 それが戦後になると隠すようになる。  大石先生の夫も戦争で亡くなり、母子家庭となるが就職が不利になる。   

「自分だけではないという事で、人間の生活は壊されても良いというのだろうか。」  (「二十四の瞳」)                                皆が大変だから大変でいいのか、我慢していいのかという問いかけです。     

「一切の人間らしさを犠牲にして人々は生き、そして死んでいった。 驚きに見張った眼はなかなかに閉じられず、閉じればまなじりを流れて止まぬ涙を隠して、何者かに追い回されているような毎日だった。」 

大石先生の生徒の磯吉が目が見えなくなって戦争から帰って来るが、「死んだ方がましだ。」という。  「死にたいという事は生きる道が他にないという事よ。 可哀そうに、そう思わないの。」とたしなめる、 

子供のころに大石先生やみんなと撮った写真があり、目の見えない磯吉はそれを手に持っていて、いう。 「それでもな。 この写真は見えるんじゃ。 な、ほら真ん中のこれが先生じゃろ。そして・・・。」 

木木下恵介監督は長期ロケをして撮影したフィルムは10万フィートとなり、完成フィルもはや約1万4000フィート(7倍以上)、普通は2倍程度。

何故そんなに自然の美しさをフィルムに捉えようとしたのか、それを語っている言葉。

「悠久の天地、自然のなかで、なぜ人間はおろかな戦争を始めるのであろうか。 何故いじらしい命を捨てさせるのであろうか。」   (「二十四の瞳」)