2024年2月2日金曜日

星野玲子(主婦)            ・『幻肢痛』と向き合って

 星野玲子(主婦)            ・『幻肢痛』と向き合って

NHK障害福祉賞は障害のある人やその家族が綴った優れた体験記に送られるもので、星野さんは長年に渡る体験実績記録に対して贈られる矢野賞に輝きました。 星野さんは東京都在住の71歳、中学1年の夏、骨肉腫により左足の切断を余儀なくされました。  以来現在までの60年近く失ったはずの左足が激しく痛む『幻肢痛』に悩まされてきました。  しかし多くの出会いや家族を得て、痛みの捉え方が徐々に変化してきたと言います。 

体験記を読んだ友人から反響が届きました。 「初めてあなたの苦労を知った。」、「貴方のしなやかな強さの原点を見た。」と言うような内容です。 タイトルが「『幻肢痛』と付き合って57年」です。 左足の大腿骨の10cmぐらいを残して切断しています。   無いはずの膝とか爪先が痛みます。 ビリビリ痛んだりジクジクするような感じです。  一番ひどい時には雷に打たれたような感じがするときもあります。 切断してから57年になりますが、今もあります。  義足を付けているときよりも付けていない方が痛みの出る頻度が高いんです。  

昭和27年東京都町田市に生まれ、育ちも同じです。 当時は一面田んぼで裏山がありました。 兄、姉がいて妹が二人の5人兄弟です。 父は建設業をしていて、母は専業主婦です。  小学校6年生の秋の運動会に向けて練習をしていた時に左足に違和感を感じました。 その後痛みになり徐々に痛みが強くなってきました。 保健の先生に訴えたらすぐに大きな病院に行くように言われました。 国立相模原病院で「骨肉腫」と言う診断を受けました。 即刻入院となり、患部を切除する手術を受けました。 (放射線治療も受けて髪の毛が抜けてしまいましたが自分で処理していました。) 母は切断にはすごく反対したらしいです。 切断したのは中学1年の夏でした。  悲しみは大きかったです。 

体験記は切断の日から始まっています。 「・・・骨肉腫と言う病魔に侵された私は左足の大腿部より切断手術を受けなければ、がんが全身に転移し命の危険があると診断された為である。・・・それから何時間経ったのだろうか。 ・・・ ぼんやりした意識の中で聞こえてきたのは蝉しぐれだった。・・・意識がしっかりしてくると左足があることに気付いた。何という事だろう。 私はっ切断されたはずの左足の感覚をはっきりと感じたのだ。」

「幻肢感覚」自分の足が存在していると思うような感覚。 

「医師に何とか痛みを取り除けないかと訴えたが、明確な答えを貰う事が出来なかった。」

我慢するしかなかった。 義足を付けることになるが付けるだけで大変な思いをしました。身長も伸びる時期なので1年で作り替えなければならなかった。 人目が気になりました。職業訓練所(身体障害者の)に入って仲間が出来た時には解消しました。  母からは手に職(洋裁)を付けた方がいいと言われました。 

「職業訓練所に入ったのは15歳だった。その寮生活で私は様々な人と出会った。なによりも驚いたのはその明るさである。・・・洋子ちゃんとの付き合いはもう55年になる。」洋子ちゃんはアクティブ、行動的な人でした。 私にとって洋子ちゃんの存在は大きかったです。 洋子ちゃんは小児まひで左足がちょっと短くなっていました。 夜自由な時間になると塀を乗り越えてラーメン屋、スナックなどに洋子ちゃんと行きました。(私はに飲めないが、洋子ちゃんは20歳で飲めました。) 自分に対して自信がついて行きました。   

職業訓練所を出た後1年半洋裁店の住み込みで勉強させてもらいました。 厳しい先生で特訓を受けました。 家に戻ってからは近所の人を含めていろんな洋服を縫って行きました。  独り立ちになるのは18歳になる少し前です。  紅白歌合戦に出た方の洋服を縫ったこともあります。 運転免許証も取りました。(遠方にも対処)   結婚して借家住いとなりました。 夫は私が義足だと知ったうえで、付き合おうと言ってくれました。      姑はがんの再発だけは気にしましたが、再発しないという事で了解してもらいました。  妊娠出産に対しては不安が大きかったです。 お腹が大きくなると『幻肢痛』が強くなってきました。 

「オギャーという元気な声が聞こえた。 こんな私でも母親になれたのだ、と思うとお湯のような涙がボロボロと流れた。 10年前も手術台にいたのだと、あの暑い夏の日を思い出した。 私の耳に聞こえてくる赤ちゃんの泣き声は、あの時聞いた東大病院の蝉しぐれと同じくらい私の胸を切なくさせた。  でも10年前の手術台の前で感じた死にたくなるような切なさではなく、私はお母さんになったんだよと、大声で叫びたいような胸が苦しくなるほど嬉しい切なさなのだ。 私は手術台の上で片足を失ったけれど、同じ手術台の上で赤ちゃんを授かった。 失ったものよりも得たものがどれほど大きく大切なものか、自分自身の身体で実感できた。」

二人の子供を授かりました。 長女が1年生になった時に体育の授業参観がありました。 母親が子供を背負って走るという事がありましたが、私にはできませんでした。 長女が悲し気な顔で私を見ました。 でも校長先生におぶされていました。(替わりにやってくれました。)  子供の成長してゆく姿は嬉しかったし、長女の結婚式ではここまで育ってくれたという気持ちが大きかったです。 主人と生活してゆく中で、自分の障害と言うものを段々意識せずに生活できるようになった、それは凄く大きかったです。 主人は穏やかな人です。 

私が38歳の時に、12歳で左足を切断した人の手記を読みました。 「終(つい)の夏かは」という本です。 著者は古越富美恵さん。 切断したあと、乳がんにもなっているんです。 「与えられた病を私はある選民意識を持って甘受してきた。」と言っています。  「乗り越えられる人にしか与えられない運命なのだ。」といった一文を読んだ時に、凄く心が動きました。 「なんで私が・・・」と言う気持ちがありましたが、それからは自分は選ばれた人間なんだと思えるようになりました。 5人兄弟のなかで私が選ばれたのは何かあるんだろうなと思いました。 腑に落ちたと思いました。 

「切断手術から57年経った今でも、『幻肢痛』との付き合いは終わらない。 でも幻の左足があるのが当たり前の生活になった。 今日もないはずの左足のふくらはぎがピクピク動いて、生きていることを私に実感させるのだった。」

『幻肢痛』があることで、自分は生きているんだという風に感じるんです。 

選評で「これほどの付き合いをしている『幻肢』が友と呼ばずに何だろうか。」と書いてくださって、、とっても嬉しかったです。 (東京大学准教授 熊谷晋一郎)         それまで、そんなふうに考えたことがなかったです、「友」なんだと気付かせてもらい心に響きました。 19歳を頭に孫が7人いますが、これから長い人生いろいろ辛いことがあるかもしれませんが、「バアバは今こんなに幸せなっている、何があっても何とかなる。」、という事を孫たちに伝えたくて体験記を書きました。