ちんどん喜助 豆太郎(ちんどん屋) ・〔にっぽんの音〕
案内役:能楽師狂言方 大藏基誠
鐘の左側に〆太鼓その下に大太鼓があり、この3つで音を出します。 今日はクラリネットを持ったカッキーちゃんも来ています。
カッキー:クラリネットは26年ぐらいやっています。 小さな劇団に所属していて、ちんどん屋を舞台にした芝居をやるという事で、クラリネットを練習しておけと言われて、練習していくうちに、こちらの方が楽しくなってしまって、ちんどん屋にのめり込んでしまいました。 即興でやっています。
豆太郎:朝ドラの「エール」と言う番組がありましたが、その最初のころにちんどん屋さんの役で出させてもらいました。 現在46歳。 大学で演劇の世界にはまって2004年位ちんどん屋さんに入門しました。 小さいころから音楽が好きでした。 クリスチャンで教会の中で聖歌を歌ってたり、ギターを弾いていたりしたフィリピンの方に手ほどきを受けたりしました。 ブルース、ジャズが好きになり、生活のなかで芸が根付いているものはないかと思っていたら、ちんどん屋さんバンドに出会いました。 音楽と掛け声が共存していいんだという事で凄いと思いました。 浅草でちんどん博覧会がありそれを見に行き凄く感動しました。 プロの親方たちの全国ちんどんコンクールが富山であるという事を聞いて、そこに行って絶対やらなければなと思い入門しました。 3分間のステージでした。入門したのは菊の屋の親方で、しめ丸親方で当時87歳でした。 90歳すぎまで現役でやっていました。 2010年に亡くなりました。 その後独立してちんどん喜助を立ち上げました。
ちんどん屋さんは宣伝屋さんなんですね。 チラシを撒いたりもします。 朝の10時から夕方の5時まで7時間宣伝をします。 ちょんまげしたり、衣装着たり、音を出したりするのは人の目を引くためです。 江戸時代末期1845年大阪の千日前と言うところに「飴勝」と言う人がいて、飴を売っている人だったんです。 口上もうまかった。 寄席の呼び込みを飴勝が請け負いました。 東西屋さんが生まれて、最初に口上で「東西、東西」と言いました。 秋田柳吉と言う人が東京に来て「広目屋」を開き、軍楽隊の退役した楽隊員を使って大うけして、楽隊広告が出来て、西洋の音楽と日本の口上が出会って合わさりました。 昭和の初期にちんどん太鼓の形が出来上がりました。 ちんどん太鼓と三味線でした。 その後洋楽器が入って来て、戦争を挟んで洋楽器が主体になって行きました。
大太鼓を入れて3人組で行いますが、チラシを配ったり、旗持ちと言ってのぼりを踊りながらチラシを配るという形が多いです。 口上、音楽、ちょんまげ(1950年代後半から)が大事です。 旅芝居をやっていた人たちもちんどん屋の方が儲かるという事で旅芝居をたたんで始めました。 そこから化粧などもやるようになりました。 今は着物に化粧にかつらのような形になっています。
基本的に親方が仕事を取って来ます。 楽士、チラシ配りなどを決めて行きますが、現場で初対面と言うようなこともあります。 音楽が上手いとか腕を買われると、フリーで助っ人家業をやる人もいます。 前はパチンコ屋さんが多かったんですが、今は飲み屋さんの開店が多いです。 イベントで呼ばれることもあります。 ギャラが厳しいところがあります。 ちんどん屋のほかに獅子舞い、日本舞踊、大衆演劇、パントマイムなども学んでいます。 人を楽しませるのが好きです。
日本の音とは、「鹿威し」です。 音の間がいいし、自然の中に染み入るように音がなくなっていて、人間が作ったものなのに自然任せになっている。 歳をとらないと良いちんどん屋さんになれないような気がしています。