2024年2月15日木曜日

小倉一郎(俳優・俳人)          ・がんでもあきらめない

小倉一郎(俳優・俳人)          ・がんでもあきらめない 

昨年、小倉 蒼蛙(おぐら そうあ)に改名しています。 1951年東京生まれ。 9歳からエキストラとして映画の現場に通い始めて13歳の時の石原裕次郎主演の映画「敗れざる者」で本格デビュー、以来半世紀以上に渡って映画やテレビに出演、気弱な小市民を演じたら日本一と称され、名バイプレーヤーとしての地位を確立しています。 俳優俳句歴も長くて結社「青蛙」の会を主宰する俳人でもあります。

大病をして、生まれかわったような気分で、仏様か神様が生まれ変わらせてくださった。  名前を変えて別の人物になったという感じなんですね。 早坂暁先生が付けてくださいました。 最初に「痩躯?」と名乗って来ましたが、蒼蛙(そうあ)になりました。  去年「がん「ステージ4」から生まれ変わっていのちの歳時記」と言う本を出版。 2021年12月にロケ先で足首を骨折して、病院に通っていましたが、右の背中が痛くなりました。 調べてもらたら両方の肺にがんが見つかりました。 ステージ4です、完治の見込みがないですと言われて、余命は1,2年という事でした。 割とすんなり受け入れました。 子供が4人いて、再度聞きにいったら、モニターを見たままでこちらを見なくて、その態度が気に入らなかったと言います。 娘がほかの病院に行ってみようと言って、行くことにしました。   ちゃんとこちらを向いて、完治はしないけれど、遅らせるとか、小さくすることは出来るので、いろいろ試してみましょうと医師が言ってくれて、治療が始まりました。 あばら骨、脳にもがんがあり、これではいよいよ駄目だと私は思いました。  

脳は放射線治療をしました。  10分程度やって1回で消えました。 抗がん剤の点滴と言う事になるんですが、治験があり是非やらせて下さいとお願いしました。 かなり痩せていて、その薬の対応は無理と言われました。  治験は諦めて抗癌剤になりました。 点滴は最初2時間半ぐらいでした。 翌月レントゲンを撮って、観たら一回り小さくなっていました。 副作用で髪の毛が抜けるという事はなかったです。 嘔吐、めまいも全く無かったです。 食べるようにしたり、足の筋肉が弱っていたので、器具を買って運動をし始めました。  シダを見た時に美しいと思いました。 「世の中に綺麗なものはたくさんあるが、美しいものは少ない。」と14代柿右衛門さんが言っていました。 美しいものを捜さなければ、と言う思いも湧いてきました。 

辛かったのは、痛みとの戦いでした。 左の背中が痛くて不安定狭心症という事でカテーテル手術をしました。(心筋梗塞だった。)  仕事は一切辞めました。 お金の面では子供たちがフォローしてくれました。  再発は絶対あると思って、俳句の結社を作って。美しい日本語を残したいと思って、「青蛙」の会を作って俳人を育てたいという思いもありました。 本も第5号まで出ました。  エッセーも出したいし、俳句の句集を3冊今まで出していますが、死ぬ前に第4句集も出したいと思っています。 映画の監督もしたいと思っています。  

育ての両親が俳句をやっていました。  俳人の本も読んでいました。 「初芝居女楽屋の笑い声」と言う句を作りました。 その女優(松岡みどり)から句会への誘いを受けました。 句会でも褒められて、ちゃんと勉強しようと思いました。 河内静魚さんを先生に迎えて勉強会を始めました。  「毬」と言う結社を作って編集長もやりました。 

9歳からエキストラとして映画の現場に通い始めて、芸歴は60年以上になります。 芝居が好きだったという事もありますが、他の世界を知らな方という事もあります。  いい脚本家、ディレクターに恵まれました。 「冬の雲」(木下恵介・人間の詩シリーズ)、「それぞれの秋」(木下恵介・人間の詩シリーズ 山田太一 脚本)に出演して、「それぞれの秋」で名が知られるようになりました。  巨悪を騙してお金を分捕って、お金を取られ困っている人に差し上げるという詐欺師の役をやってみたい。 俳優をやったり、俳句をやったりいろいろしていますが、究極、私の本業は私なんですね。 悔いなく私を全うしたいという思いがあります。  命がある限り真剣にどれもこれもやって行こうと思っています。