熊谷博子(映画監督) ・〔わたし終いの極意〕 「いのち」を撮り続けて
熊谷さんは東京都出身、長く日本の炭鉱に関わる人たちの姿を追う続けてきました。 2013年にNHKで放送したETV特集「三池を抱きしめる女たち」では、戦後最悪とされた炭鉱事故に遭い変り果てた夫を抱えながら、半世紀以上も世の中と戦い続ける妻たちを描き、放送文化基金最優秀賞などを受賞しています。 この3月から公開される最新作「かづゑ的」ではハンセン病回復者の宮崎かづゑさんの日常を8年に渡って丹念に記録しました。
宮崎かづゑさんは瀬戸内海にある国立ハンセン病療養所の長嶋愛生園と言うところがありますが、20歳から入所して、最近96歳になりましたから、85年以上そちらで暮らしています。 個性的、魅力的な人です。 後遺症で指が10本無くて、右足はひざ下から切断していて足の先が無いんですが、一緒にいるとそれを全く感じさせないです。 知識が豊富で何でこんな広い世界を持っている方なのかと思いました。 口癖が「出来るんよ、やろうと思えば。」といっています。 78歳にしてパソコンを覚え、84歳で初めての本「長い道」を出版して、それが心打たれる本です。 フォークの先に皮を付けて指の先にしたものを作ってもらって、フォークの柄を曲げて手の平に挟んで打つ道具を自分で考えてパソコンを打ったんです。
10年ほど前に、私の知り合いからどうしても会ってほしいという人が居て、長嶋愛生園迄連れて行かれました。 「長い道」を読んで心打たれました。 話をしてこの人を撮って記録しなければいけないと、その場で思いました。 8年間かかって撮りました。 これまで本は出しましたが、ハンセン病に関する取材には一切応じてくれませんでした。 可哀そうなハンセン病患者と言う目線で見ることに憤りがあった。 私はハンセン病に関してはまっさらな状態だったので、かづゑさんから「あの人ならいいわよ。」と即刻の返事でした。 「ありのままの状態を見せて欲しい、それを残したい。」とかづゑさんは言いました。 「お風呂も取って欲しい。」と言われ、「病気のことは私の身体を見ないと判らないでしょう。」と言われました。 「真実は表も裏も撮ることが、訴える力が強いです。」と言われました。 2日目にお風呂のシーンを撮りました。 お互いがその場で覚悟が決まりました。
製作日程は全く決まっていませんでした。 泣いて笑って勇気の出るハンセン病の映画が出来たと思います。 幼いころのかづゑさんは重症で、軽い患者さんからいじめを受けたり、成長した時に大人の方から侮蔑の言葉を言われたりして、差別の本質にあるものだと思います。 かづゑさんがどうそれを乗り越えてきたのかと言うと、それは家族の愛、家族から愛された思いが詰まっている。 かづゑさんには心と身体に愛情の貯金がたっぷりあったんです。 或る時死にたいと思った時に、母親が来ると思ったらそれはとてもできなかった。それと別の世界に逃げ込む、それが読書でした。 その二つで何とか自分を保つことが出来た。 膨大な読書量が今のかづゑさんを助けている。 人が生き抜いていくための普遍的なものを描いたつもりです。「かづゑ的」と付けたのは独自の物なんですね。 誰でも真似できない生き方で、「かづゑ的」な生き方なんですね。
熊谷さんは1951年東京生まれ。 小さいころは好奇心が旺盛でした。 小学校の図書館の本とか中学の本で触発されて、自分では新聞記者になろうと決めました。 高校の時には飛び板飛び込みと高飛び込みをやりました。 その感覚は生きていてとりあえずは飛びこむ、やってみる。 (かづゑさんに対しても、とりあえず飛び込んで行きました。) 大学卒後番組制作会社でディレクターとして仕事をしました。 たまたまドキュメンタリーの仕事に関わりました。 その後フリーの映像ジャーナリストになり、アフガニスタン、筑豊、三池とか炭鉱を舞台にした人たちを追い続けました。
炭鉱は命が失われて行った場所ですが、1988年にアフガニスタンに半年行って、私自身にロケット弾が間近に落ちたことがって、たまたま私は無傷でした。 他にも人が亡くなる場面を眼にして、人が亡くなるという事に麻痺し始めて、阪神淡路大震災を撮った時に、人の死に対して無自覚であったという事に気が付きました。
私は「終う」という感覚が全くないです。 先生から「君、人生何事においても遅すぎるという事は無いんだよ。」と言われました。 いつも心に中に思っています。 宮崎かづゑさんが水彩画を始めたという事ですが、引き出しにパレット、絵筆、絵具が用意されていて、包帯を手に巻いてそこに絵筆を指して、描くんです。