西田昌矢(新聞記者) ・〔人権インタビュー〕 逃げてきた私が、いまこそ書く
九州地方で発行されている西日本新聞で去年或る連載が組まれました。 タイトルは「記者28歳 私は部落から逃げて来た」、書いたのは若手記者の西田昌矢さんです。 被差別部落出身という自らのルーツを初めて明らかにしたうえで、自身や周囲の人たちが今も差別の不安を抱える姿を綴り、現代の差別部落の実態を明らかにしました。 反響は大きくこの連載を含む人権問題の向き合う一連の企画は今年度の新聞協会賞にも選ばれました。 身近にいる当事者たちの存在に気付いて欲しいと言う西田さんに伺いました。
入社後本社の社会部に勤務して、その後長崎総局に移動、福岡に移動して取材、今年8月に本社の社会部に移動になりました。 「記者28歳 私は部落から逃げて来た」の連載で、最初に中国地方の被差別部落で生まれた、その出自からずっと逃げて来た、と自身のことを綴っています。 連載を書くまでは、部落にうまれたことは出来れば知られたくないという風に思っていました。 地区学習会と言う集まりがあり、被差別部落に生まれたという事を学習会を通して教えるような集まりで、小学校1年生から6年生まで少しづつ部落問題について教えられるという集まりでした。 「部落差別に負けない子供になりましょう。」と先生の話があり、まず意味が判りませんでした。 「差別はいけないんよ。」、と言うような話から始まりました。 結婚差別、就職差別と言うようなことがあるというような話も出てきました。 高学年になると当事者からの話も出てきました。
週に一回で周りの人たちは遊んでいるんで、めんどくさいので遊びたいというような感じでした。 昔の話という認識でした。 高学年で初めて差別を受けた体験を聞いた時、穢れるという言葉に衝撃が焼き付きました。 友達の家に遊びに行った時におばあさんがお茶とお菓子を出してくれるんですが、来た子等にどこから来たのか問われて、私が答えたら「貴方は部落の子なのに賢そうね。」と言われて、どうなのかと言う事を考え始めました。 何でこんなところに生まれてしまったんだろうか、と言うようなことを考えました。 同和教育に携わっている人たちに反発するようになりました。 自分を守るための術でした。
大学生になった時に、友達が私のアパートに泊りに来た時があって、「被差別部落の暮らし方」と言う本が自分の本棚にあることに気付いた時に、悟られるのではないかと思って、彼がトイレに行った隙にタンスに押し込んだ記憶があります。 姉は交際相手に初期の段階で被差別部落出身であることを言うそうです。 伝える怖さがあるそうです。 人生の節目節目で考えないといけない瞬間と言うのがやってくるのかなあと思います。
入社後すぐに先輩から4年後に100年の節目があり、このタイミングは人権問題をいくらでも書けると言われ、目の前にある人権問題を書き合おうという提案頂きました。 その時に被差別部落出身であることを初めて言いました。 その後長崎に移動になり被爆者の体験を聞くことになりました。 被差別部落の取材で結婚差別の話をしてくれて、仮名「たかし」さんについて、話を聞いているうちに段々記憶がよみがえって来て、祭りに部落の人が参加すると穢れるという事で、祭りには参加できなかったそうです。 それならじぶんたちで祭りを作ってしまおうという事になって、初めて地域で祭りを始めたそうです。(いまだに続いている。) それは郷土愛という事でした。 自分の地域への誇り、愛を失ってはいけないというメッセージを「たかし」さんとしては持っている。 最近地元に対して、なんにもないけどいいとこあるよ、と言う風に言えるようになってきたなと思います。
部落問題について書こうと思って母親に電話をしましたが、前向きではなかった。 母は「立ち場宣言」(自分は部落出身だが皆さんと変りありません、と言うそうです。)することが厭だったと言います。 母親への取材でも話したくない感じでした。 「あんたには普通の暮らしをしてほしい。」と言う言葉が出ました。 多くの人は自分の出自を明かさずに、部落問題とはかかわりなく生きてきていて、人生の節目節目で部落問題について考えないといけない瞬間がやってくるという、その人の方が多分多いだろうと気付いて、その思いを代弁するのが私の役目なんだと思いました。 母も連載を読んで理解してくれました。
人権問題、差別をどうやってなくすかと言う事に考えながら記事を書いていました。 差別は少なくともゼロにはならないだろうなと思いましたが、取材をしてみると、差別をなくす当事者として活動している人が、確かにそこにいた。 伝えることは無駄ではないと思いました。 生きづらさを感じている人は直ぐ近くにいると思います。 深刻であればあるほどなかなか人には話せないと思う。 取材をすることによって間違いなく傷つく人はいるんですね。 ゲイのユーチューバーを取材した時に、もしかして差別用語じゃなかったかな、と言うところから考え始めちゃうんです。 取材者としてだけではなく一人間として関われればいいなあと思います。 人権問題も、まずいろんな人が居るという事を理解する事なのではないかと思います。