2023年12月16日土曜日

西田好子(キリスト教牧師)       ・西成で出会った人たちの心を支えて

西田好子(キリスト教牧師)       ・西成で出会った人たちの心を支えて 

西成は日雇い労働など多くのひとたちが仕事を求めて集まる労働者の町。 西田さんはこの町で路上生活をしていた人や元受刑者など、人生に迷い生きる目的をも失っていた人たちに対して、人生をもう一度生き直すためのサポートを続けています。 西田さんは西成の街で路上生活者などに積極的に声を掛けて、ざっくばらんな飾り気のない言葉でやり取りしながら、話を聞いて行きます。 西田さんは生活保護の申請や、住居の手配などの生活面でのサポートを行っているほか、早朝地域でのスーパーの買い物も日課にしていて、毎日西田さんと生き直しに取り組む皆さんが顔を合わせて話をすることを大切にしています。 西田さんと出会い、キリスト教の洗礼を受け、人生をやり直した人はこれまで30人ほどいます。 西田さんは73歳、様々な境遇の人たちに寄り添い続けた西田さんの「人は生き直せる。」と言う思いについて伺います。 

父親は働いてもお金をもらって帰ってこないので、母親が朝から晩まで働らいて、この子は私のようなみじめな子にさせたらいけないと思って、先生みたいなのがいいという事でした。  母親の思いに沿ってやりたいと思いました。 

1950年大阪の十三の貧しい家庭で生まれた西田さん、教師を目指して猛勉強に励みました。 母は大学の進学の資金の為、父に独立を促し、水道関係の工事を請け負う会社を設立させました。 西田さんは京都の教育学部のある大学に進学、小学校の教員免許を取得し、滋賀県の教員採用試験に合格しました。 赴任先は大阪の自宅から通勤時間およそ2時間、滋賀県守山市にある小学校でした。早朝から夜遅くまで時間があるかぎり、子供たちと向き合い理想の学級つくりに力を入れて行きます。  

マラソンに取り組みました。 勉強が苦手でも走るのが得意な子がいました。 速い子は遅い子を面倒を見ると言う決まりが出来てくるんです。 勉強でも手助けをするようになります。 役割が出来てくる。 誰も取り残しをしないようにしました。 天職と思って、この生活で申し分ないと思いました。 母も喜んでいました。 その後大津市の小学校に移動、その時28歳の同僚と結婚、夫の実家で夫の両親と一緒に暮らし始めました。 子どもも生まれ母としての役割も加わりました。 多忙な日々の生活は長く続きませんでした。 或る出来事をきっかけに人生は困難なものへと変って行きます。 

産後で、夏の集会があり途中で帰らざるを得ず、スーパーで物を一杯買って,レジの近くに一時的に買い物を置いたところを、店の人に声を掛けられて、その時に見ていた人が居て「西田さん万引きだ。」と言うんです。 学校にもわかった。 耐えられないので教師を辞めますと言いました。 小学校を退職して夫とも離婚をして、30歳で2人の子どもと共に大阪に戻りました。  当初はスーパーなどで働いていましたが、次男が保育園に行く頃にっもう一度教師になることを考えます。  自分の子どもの面倒は母に観てもらい、働き始めます。 かつてバラ色だった教員生活とは程遠いい現実が待っていました。

非常勤の先生として活動。  3か月とか、6か月でその都度子供たちが違ってきて、学校の雰囲気、教師も違ってくる、それに対応していかなくてはいけない。 不登校の子を迎えに行って、学校についてきました。 しかし、私の教壇のところに来て邪魔をします。 色々ある中で心が疲弊していきました。  子どもの預け先、愛光保育園がキリスト教の傘下でした。 それが最初の出会いでした。 息子二人は中学で洗礼を受けています。 私も洗礼を受けたいと思いました。  自分も変わりたいと思って洗礼を受けました。   

家族を失い仕事も失った人たちがいることを知りました。  堤防の下で火を焚いて暖を取っている。 こういた人を初めて見ました。 こんなことで悩んでいる自分はいけないと思いました。 彼らとしゃべってあげると喜んでくれました。  昔食べたモーニングを食べたという事で、ホットコーヒーと砂糖を持って行ったら、モーニングを食べた気持ちになって、泣いてくれました。  他にもいろいろの路上生活者との出会いがありました。    私を毎日待ってくれていました。  自分の持っているものを差し出そうと思いました。  でも差し出すものには限界があります。 

マタイの福音書25章 「さあ私の父に祝福された人たち、世の初めからあなた方のために供えられたみくにを継ぎなさい。 あなた方は私が空腹であった時、私に食べるものを与え、私が乾いていた時私に飲ませ、私が旅人であった時私に宿を貸し、私が裸の時私に着るものを与え、私が病気をした時私を見舞い、私が牢にいた時私を訪ねたからです。 これらが私の兄弟たち、しかも最も小さい者たちの一人にしたのは私にしたのです。」 西田さんはこの聖書の言葉と出会い、天職とした教師を辞め、路上生活者を支援するため、牧師になる決意を固めました。 

私がやった、路上生活者に対してやったことは神様にやったことだったんだと気が付きました。 小さいものは誰からも相手にされない、小さき者、その者に手を差し伸べなさいと書いてあるんです。 路上生活者は神様が一番愛していると思いまして、私もこの人たちを愛していかないといけないと思いました。  これが教師を辞めるきっかけになりました。  牧師になるための長男の浩平?さんが通う関西学院大学の神学部に編入しました。  2年かけてキリスト教について学び卒業、日本基督教団の牧師となります。 赴任先は四国にある教会。 救いたいのはあくまで路上生活をしている人たち。 四国の教会を辞め、大阪西成を拠点にした牧師になる決意をします。 当初は認知症の母を介護しながら、他の教会、会議室などを借りて支援活動に取り組んでいました。   時間、場所に制約された中では、思うような活動できず、限界を感じていた時に母との別れが訪れました。 母が100歳私が70歳でした。  

母の死には、もっと自由に動けるという意味があると思って、生活のすべてを掛けて支援活動に取り組んでいきました。  小さいながらも自分の教会を設立、自分をさらけ出し、常に本音でぶつかるスタイルは徐々に受け入れられ、信徒の数も増えて行きました。 大切にしている事は毎日顔を合わせ話をすること。  その人がどこでつまずいたのか聞いて、そして、「貴方ののせいじゃあないね。」と言います。  しゃべったりする事、嬉しかったことなどが、例え数か月、1年であろうと経験させてあげたい。 過去が辛い人生であったとしても、ほんの最後が楽しければ、この人生を全部忘れられる。 自分も見捨てらっれたとういう経験があります。 でもそれは良かったと思っています。 彼らの気持ちが判るから。  本当の両親から貰えなかった愛を私はあげましょうと言っています。 貴方が正しく生きるために怒っているんです(それが私の愛)と言っています。 私の荒い言葉の中に愛が入っているんです。 私はイエス様ではないです。