水谷八重子(二代目)(俳優) ・昭和のよさを伝え続ける
水谷八重子さんは昭和14年東京都生まれ。 母は劇団新派の俳優水谷八重子、父は歌舞伎俳優の14代目守田勘彌。 1955年8月水谷良重の名前で初舞台を踏み、同時にジャズ歌手としてもデビューを果たします。 またテレビ放送開始と共にテレビにも出演し人気となります。 1995年に二代目水谷八重子を襲名し、劇団新派の座頭となります。 NHKでは1958年から1961年4年連続で紅白歌合戦に出場、またドラマでは「若い季節」大河ドラマ「竜馬がゆく」などに出演しています。
テレビの創成期からテレビに出演している。 試験放送にも出ている。 私たちはグレーと白と黒に染め分けられた浴衣を着て、口紅も黒で、桜の木の下で東京音頭を踊りました。 (中学生ごろ) 俳優は目指していませんでした。 母は6歳ごろからずーっと女優の道で来て、学校と言うものを知りませんでした。 自分の娘にだけは学生生活を送らせようと思いました。 高校を受けて落ちて、何とか学校を辞めたくて、「女優になりたい」と言えば辞めさせてもらえるかもしれないと思って、中学でおしまいにしました。 日本舞踊だけは辞めさせてくれなかった。 アメリカのミュージカルの映画が入って来てみるたびに、好きなことを自覚して、アメリカに行って本物のミュージカルを観た時に、新派は好きだなあと思いました。 ジャズは服部良一先生のところに弟子入りしました。 8月5日が歌舞伎座の新派公演の初日で、デビューのレコードの発売日でもありました。(16歳)
劇中に母と花柳先生と北村先生と私の4人だけで、初舞台の口上をやっていただきました。 初舞台はどうしたらいいのか判らなかった。(自分の存在が消えているような感じ。) ひと月間が長かった。 テレビも1961年からNHKの生放送のドラマ「若い季節」に出演。(ビデオの時代にはなって来ていたが) 作家が小野田勇先生で遅筆で当日にならないと判らない、と言った感じでした。 当時は市井の事を演じるのが新しいものでした。 女が男にかしづいている時代で、女が男のために尽くす時代で、耐えしのばなければいけない女を主人公にしている、と言うのが新派の魅力だったみたいです。 新派の今古典と言われる衣装は全部花柳先生が考案したものばっかりです。 それを変えようがない、越える衣装がない。
新派を残していかなければいけないという使命も感じます。 それは母が死んでからだと思います。 母が最初に教えてくれたことは、「本当にその気持ちになってやりなさい。 嘘をつちゃいけない。」と言う事でした。 新派の私が古典をやらせてもらえるようになった時には、嘘をつかなければならないわけです。 パッと会った時に惚れた男をじっと見ていたい。 タバコのキセルを掃除してやるなんて思いもつかない。 だからそういう気持ちにならない。 だからやらないと反抗もしました。 若い時には、このキセルがいとしい人のものだというところに思いつかなかった。
今の若い方は素直すぎる、疑問を持たないでいう事を聞いてしまう。 疑問を持って、違う事を考える人がやってゆくから、それが時代と共に生きてゆくんじゃないかなと思います。私は母に反発するエネルギーだけでやってきたみたいです。 明治の女の人の方が口にもしないで我慢する。 その強さは今の女の方が弱いと思う。 強さの質が違う、ワッという強さと堪える強さ。 婦系図の「お蔦」では 会わないと言われて、会わないと決めたら会わないで死んでゆく。 会わないでいられる愛し方の強さ、そういうものは今はないと思います。 1月から「東京物語」を上演します。(コロナのためにできなかった。) 舞台で出来るというのは、山田洋次監督(脚本、演出)がいたから実現したものだと思います。
お客様はただものではない、「お客様は神様です。」と言った人が居ますが、ひょっとするとそうかもしれない。 普通だったらできないことを与えてくださるんです。 送ってくださるエネルギーが無かったら、全く出来ないのかもしれない。 初舞台の時から母からは「あんたじゃないのよ。 この人物になるのよ。 ものの考え方から何から何まで。」と言われたことが身に沁み付いています。 自分以外の人間に自然にスーッとなれる、そうありたいと思っています。 やれることを必死にやってゆくだけですね。
樋口一葉「大つもごり」の朗読を23年続いています。 明治の言葉で書き込まれているので、今の平坦な言葉でセリフを言ってはいけないので、或る人の指導の下に「大つもごり」をやって来ました。 現代に翻訳されないと伝わらないといけないので、現代語で朗読すると言う事もやっています。