頭木弘樹(文学紹介者) ・〔絶望名言〕 古川柳にみる絶望名言
川柳は現在でも人気があり、サラリーマン川柳などはその代表格です。 雑誌のラジオ深夜便にも川柳のコーナーがあります。 古川柳からの絶望名言を紹介します。
「大晦日首でも取って来る気なり」
昔の川柳で今でも心に響くものは、いつの時代でも変わらない人間の根本的な気持ちを描いていると思います。
俳句も川柳も基本的に五、七、五で、俳句には季語、季節を表す言葉が入りますが、川柳には入っていなくてもいい。 俳句には切れ字、「かな」「けり」とかがありますが、川柳は無くてもいい。 俳句の場合は多くは自然を詠みます。 川柳は多くは人間を詠む。 川柳は基本的には風刺とか、ユーモア、笑えるものが凄く多いです。 落語と同じで人間の駄目さ、悲しさ、絶望とかを表現しているものが多いです。 それをあえて笑いにする。
「人は圧倒されるような失意と苦悩のどん底に突き落とされた時には、絶望するか、さもなければ哲学か、ユーモアに訴える。」 チャップリン
川柳も失意、苦悩、絶望をユーモアに訴える。 だから味わい深い。
「大晦日首でも取って来る気なり」 昔は米、味噌、醤油などはつけでも買えた。 大晦日は一番大きな区切りで、「かけとり」と言ってつけのお金をとりにゆく、何としても払ってもらう。
「大晦日首でよければやる気なり」 お金がないから首でもなんでも持って行ってくれ、と言うものです。
「屁をひっておかしくも無し独り者」 おならをしても笑う人が居ない孤独。
俳句 「咳をしても一人」 尾崎放哉
俳句 「咳がやまない背中をたたく手がない」 山頭火
咳を屁に変えるだけで川柳になる。
「嫁の屁は五臓六腑をかけめぐり」 おならが出ないように我慢しているが苦しくて、おならが五臓六腑を駆け巡る気がする。
「神代にもだます工面は酒が入(いり)」 これはヤマタノオロチのことです。 スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治するときに八つの酒樽を用意して、お酒に酔わせて退治する。 神代の時代から相手を騙す工夫として、お酒が用いられた。
頭木:僕はお酒は普通に飲めましたが、難病になってからは飲むことが出来なくなりました。 でも付き合う事は好きです。
「ふぞろいの林檎たち」」 原作:山田太一 からの一節 「酔うのが嫌いなんだ。 もっとも人が酔ってゆくのを見ているのはそれほど嫌いじゃあない。 毒薬が段々効いて来るのを見ている様でね。 当人はちっともまだ酔っていないつもりで口調がちょっとだらしなく成ったりする。 そのうち顔が赤くなる。 醜くなる。 話がくどくなってグラスを倒したりする。 後で思い出したら死にたくなるような事もしゃべりだす。 吐いたりもする。 それを飲まないで見ているのは楽しみでなくもない。」
酔っている姿をはたから見られるのは辛いですね。
「酔ったあす女房のまねるはづかしさ」 酔っぱらって帰って来た翌朝、妻がその様子を真似するわけです。真似されて恥ずかしい。
*「酔い覚めに土瓶の蓋が鼻へ落ち」 酔った後水が飲みたくなる。 「酔い覚めの水千両と値が決まり」と言うのもあります。 酔った人の何とも言えない状況を描いている。
「母の名は親父の腕にしなびて居」 昔は好きな人の名前を刺青したりしていた。 例えば「お駒 命」とか。 夫婦とも高齢になってしまっている。 でもしなびるまで一緒に暮らしている。幸せな情景ともいえる。
「女湯へおきたおきたとだいて来る」 赤ん坊が目を覚まして、泣き出したりして、赤ん坊を抱いて女湯に入って行く。
「居候三杯目にはそっと出し」 居候は肩身の狭いものです。
「居候ださば出る気で五杯食い」 出て行けと言われればその覚悟で、その気で五杯食う。
「居候嵐に屋根を這い回り」 お世話になっているので台風の時などには、飛ばないように危ない作業をする。
「しじみ売り黄色なつらへ高く売り」 黄色なつら=黄疸(肝臓、すい臓とかの病気)で顔が黄色くなっている。 昔から黄疸にはしじみが効くと言われていた。 病気のために買うのなら、少し高くても買うだろうとする。 元手が要らないので貧しい人がしじみ売りは多かった。 少しでも多くを稼ぎたいと言う思いがある。
「こしかたを思うなみだは耳に入(いり)」 こしかた=これまで過ぎ去った人生のあれこれ 涙が耳に入るという事は仰向けに寝ている。 これまでのいろいろな人生を思い出して涙が出てきて、流れて耳に入る。
部屋を片付けるのにも年齢を重ねる程捨てにくいものがある。
雨宿りは今もあるが、軒下に雨宿りする。 どんどん雨脚が強くなって本振りになってしまう。 待ちきれなくなって飛び出してしまう。 もっと早く出ればよかったと悔やむ。 最後の川柳はそんな情景を詠んでいます。
「本降りになって出てゆく雨宿り」
*印はかな、漢字などが違っている可能性があります。