藤原帰一(国際政治学者) ・【私の人生手帖(てちょう)】(後編)
後編では、国際政治と映画はどのように繋がるのか、その基本となる姿勢はどのようなものなのかを中心に伺います。
映画を考えるときに、どのへんでどういう展開が出てくるのかということが大変大事です。 ヒーローが居てヒーローは色々欠点とかがある、何らかの出来事によって追い詰められる。 助けそうな人も配置しているが、そう簡単には助けてあげない。 追い詰められて助けてもらう。 これがラブストーリーだったら最後に結ばれる。 色々伏線もある。 これをちょっとでも変えて面白くすることは難しいことです。 「カサブランカ」は何度も見ましたが、脚本の構成も画面の構成も本当にクラシックなハリウッド映画ですね。 男は意味ないのにかっこつける。 「気取り」が男を支える気取りなんです。 娘が好きなのは「風と共に去りぬ」。 「風と共に去りぬ」はかつての南部に対する強烈な憧憬を持ったスカーレットがかつての南部にぴったりのアシュレーに憧れるわけです。 レッドバトラーがスカーレットから最後の最後に出てゆくわけです。 明日があるという事を発見する。 映画はジェンダーの視点によって違ってくるんですね。
「山猫」(監督はルキノ・ヴィスコンティ)、「道」(監督はフェデリコ・フェリーニ) 「道」では女が「私なんか生きている値打ちなんかないのよ」といった時に、道化師の男が石を拾って「こんな石にもちゃんと神様がここにおいてくださっている意味があるんだよ。」というと、女が救われたような顔をするんです。 ここだけの場面でも凄い映画です 「山猫」では舞踏会 自分は貴族で、貴族は滅び去ってゆく階級だと思っている。 甥が成金のお嬢さんと結婚する、これが新しいイタリアになって行くんだろうとわかっている。 貴族の令嬢たちはやがて滅びてゆくだろうと思っているが、舞踏会では見事に踊るわけです。 滅びゆく貴族だけれど貴族にしかできないんだという誇り。 一つの時代の終わりを 舞踏会一つで示してしまう。 ヒッチコックは「暗殺者の家」から「サイコ」まで全部好きです。
日本では小津監督の映画は素晴らしいと思います。 溝口健二監督『西鶴一代女』、黒沢監督の映画も繰り返し見ます。 「野良犬」「用心棒」「天国と地獄」など。
高校生の時にスピルバーグ監督の「激突」という映画が公開されて、「野良犬」などを見て、構成が卓抜で僕が映画の世界に入ってゆくのは駄目だと思い知りました。 映画の世界に関われないんだったら、生きる意味は有るんだろうかと、そこまで考えました。 弁護士とかになってお金を稼いで映画を見る人生を考えていましたが、国際政治を教えていた坂本先生の授業は違っていて、考えさせることを大事にする先生でした。 国際政治に関心があったし、面白いと思って大学院への進学を決めました。
武田泰淳という作家の「政治家の文章」の中で、政治家が書いた文章を紹介しながら、どういう人なのかという事を面白がっている。 ちょっと突き放した視点。 武田泰淳と丸山真男とは友達で、丸山真男もちょっと突き放した視点で面白がる、それが私は好きだったと思います。 政治の分析をするときに注意しなくてはいけないことは、なにが起こっているのかについて、どこまで判るのかを見る事です。 情報は不完全。 こういう事になっているんだよという事は早い時期から流れます。 判っていることと判っていないことの区別をまず自分で立てることが一番大事です。 判ったつもりになることが一番怖いです。
今年の8月31日のアフガニスタン完全撤退という方針を貫く、ドーハで行われた和平の協議が破綻した。 その時の選択肢はあり、撤兵を繰り延べにする(時間稼ぎが出来た)、でもバイデンはしなかった。 これは判らないことで、おそらくトランプ政権の時にタリバンとアメリカ政府が交渉して、完全に撤退するならそれまでアメリカの兵士を攻撃しないとタリバンはいうんですね。 トランプ政権の時に実際に守られていた。 撤退を繰り延べにしたら、米兵に対する攻撃を始める可能性がある、だから出来ない、完全撤退を堅持したんだと、私はその可能性はあると思います。 仮説を言いましたが、もっと情報を集めてきちんと押さえなくてはいけない。 新聞記者などはとにかく起こったことに対して書かなくてはいけないが、学者はこれは判りませんという事は出来る。
私たちは現実を客観的に見ることができないです。 みんな自分の見える範囲で見ているし、自分で持っているものの見方に沿って解釈している。 客観的な現実となると良く判らない。 現実は色々な視点から構成されていて、政治の現象は特にそうなんです。 限られた情報の中でやり取りをする。 国際政治の場合には特にそうですね。 映画はカメラの視点、カメラは全部映すことができる。 映画は視点を明確にするために工夫をします。 この人の目から見ているんだなという事をわざと出す。 主人公の視点から映画を見るように表現を工夫している。 又主人公よりも引いた視点でサスペンスを作る。 映画は視点の操縦によって生まれてくる。 小説の場合も主人公の視点を中心として小説を組み立てるという方法が、20世紀小説には特に盛んになって来る。 その後語り手が信頼できない人だという筋書きも出てくる。(羅生門など) 様々な視点から見ていると見えてるものが違う、ストーリーが違う、それを何だったんだろうかという事を再構成するのが国際関係の勉強なんです。 まさに映画と国際政治が繋がるんです。