岸田 ひろ実(母) ・「もうあかんわ」を切りぬける 作家・岸田奈美 母と娘の15年
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パラリンピック放送のスタジオゲストやワイドショーのコメンテーターとして活躍しているエッセー作家の岸田奈美さん(30歳)、ダウン症の弟良太さんのこと、中学時代に心筋梗塞で亡くなった父親のこと、大動脈乖離で倒れて車椅子ユーザーとなった母親のこと、家族のことや日々のてんやわんやを軽快な関西弁で綴り相次いで書籍化されています。 岸田奈美さんと母ひろ実さんが家族のピンチをどう乗り越えてきたのか、そして母と娘はどう向き合って来たのかを3回シリーズでお送りします。 一回目の今夜は母ひろ実さんがこれまでの道のりを語ります。
短期大学を卒業して大手系列の不動産会社に就職、そこで主人の浩二さんと出会う。 野球をずーっとしていたので、身体はがっちりしていました。 結婚して1年半で寿退社しました。 22歳で奈美が誕生。 26歳の時に阪神淡路大震災に遭う。 マンションの7階で壁にクラックが出来たり、家具が全部倒れたりしましたが家族は全員無事でした。 甲子園球場の近くに夫の実家があり、半壊でした。 両親を車で連れ帰りました。 主人の父親は大工でじっとしてはいられないという事で戻り、主人はサラリーマンで自宅待機を申し付けられていました。 会社を辞めて大震災で困っている人たちを助けるという思いで、父親と一緒にやってゆこうという事で、まず大工仕事を父親から学びました。
1995年第二子 良太が生まれます。 息子がダウン症だということが判りました。 医師から説明を受けて意識が遠のいてゆくような状況で、ショックでした。 主人は「みんなと一緒に遊びに行けるし、生きているだけでいいんや」、みたいなことを言ってくれた時に「いやいやそうじゃない」と辛くて、「このまま良太と二人で消えてしまいたい」とポロっと言ってしまいました。 「ママが育てるのがいややったら、育てなくていい、どこかに預けることもできる、俺はママが元気やったらいいから」と言われました。 なんてことを言うのと思うと同時に、いざとなったら育てなくてもいいと思ったら、すごく気持ちが楽になりました。 やれるところまでやろうと一瞬で変われました。
出来ることがいろいろ遅かったが、彼の得意なことをまず伸ばしていこうと思いました。 保育園で人生で覚えなければいけないことを保育園のお友達から教えてもらったといっても過言ではないような保育園生活でした。 二人を同じように育てていたつもりでしたが、娘が転んだ時に、良太を手放せないので、「起きなさい」と言ってもさらに号泣して、「私のことなんかいらんと思っているやろう 良太のことが好きなだけでしょう」と言われて、えっと思いました。 こんなに寂しい思いをさせたのかと思いました。 それからはことあるごとに抱きしめようと思いました。
2005年6月9日主人が亡くなってしまいましたが、その2週間前「ちょっと胸が苦しいような気がする」と言っていました。 車で迎えに行って帰ってきて車を降りて歩く姿が本当にゆっくり歩くんです。 病院に連れて行こうとしたら行かないと言っていましたが、その晩の11,12時ぐらいに胸が苦しいので救急車を呼んでほしいと自分から言いました。 手術を開始したが、予想外に危ない状況で人工心肺装置を付けなければいけなくて、2週間の闘病生活がありましたが、意識を取り戻すことなく亡くなってしまいました。 急性心筋梗塞でした。 主人は39歳で私が37歳の時でした。
号泣したのは亡くなった時と葬式の時ぐらいで、後は色々忙しくて泣いていられない状況でした。 それと主人が尊敬していた人からの手紙があり、小学校の時に父親を亡くしたが、父親を亡くしたことよりも母親がずっと悲しみに泣いている姿を見ることが僕にとってつらかったので、ひろ実さんには悲しいでしょうが、子供たちの前では元気な振りをしてください、という内容で、そこからスイッチを切り替えて、これからは夫の替わりをしていこうと思いました。 整骨院での受付の仕事から始めました。 整体の教室が福岡であるという事で行きました。 もう少しで整体の学校も終えて次の段階に行けるかなあと思った時に、大動脈乖離という病気になってしまいました。 救急車で病院に行きCTを撮ったら1分1秒を争う事で死ぬかもしれないという事でした。 冷静に聞けるのが高校2年生の娘しかいませんでした。 元通りになるのはほとんどゼロに近くて、とにかく命を助けることを最優先にしますという事でした。 手術は成功したが下半身が利かない状態になりました。
リハビリが始まると現実が段々判ってきて、寝返りの練習から始まります。 起き上がることが出来ない。 落ち込みましたが、兎に角元気を装うとしました。 社会で生きてゆくことができない、子供たちの世話もできないという事が判るにつれて、ついに情けない気持ちを打ち明けてしまいました。 娘に助けてもらいながら或るカフェに入って、娘に向かって「私は死ぬかもしれないし、死にたいと思っているから死んでも許してほしい」という気持ちを打ち明けてしまいました。 「わかった、死にたいなら死んでもいいよ 許す」と言われました。 吐露したら気持ちが楽になりましたが、「死んでもいいよ」と言われたらさらに気持ちが楽になりました。 本当に苦しい時とか悩んでいる時にはこの人に言っちゃあ駄目とか決めつけないで、まず言ってみたらいいんだなと思いました。 この気持ちを誰かに聞いてもらうという事がすごく大事なことだと思います。
物理的に歩けなくなったという事でしてあげられることが減ってきて、子どもたちに頼らないといけないことが増えてきて、頼られる存在ではなくていいんだなと思って、子供たちに頼ってみようと思いました。 「もうあかんわ」という事が色々襲ってきますが、何とかなってきています。 生きるか死ぬかで考えたら、大体のことはシンプルに決断を下せるなという感じです。