2021年10月12日火曜日

今泉宜子(明治神宮・文化研究所主任研究員)・100年計画の鎮守の杜"明治神宮"

 明治神宮は1920年(大正9年)11月1日に創建され、年間1000万人の参拝客が訪れています。   楠や樫などが生い茂る神宮の森は騒音を遮り気持ちが休まります。   都心の貴重な森ですが、この神宮の森は自然林ではなく明治時代の初期にドイツで森林学を学んだ東京帝国大学の本多 静六教授を中心にした林学者たちによってつくられた森です。     今泉宜子さんは明治神宮の造営について研究され、イギリスやフランスに留学しました。   今泉さんは明治神宮は当時の西洋の思想や知識の影響を受けて作られたもので、西洋と日本の架け橋であると言います。  

 明治神宮は創建されて去年100年経ちました。    明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后をおまつりする神社ですが、東京に作ろうと運動して展開したのは、民間有志の方がたで、その中心人物は渋沢栄一さんです。    渋沢さんと東京商工会議所に集まった有志の方々が明治神宮奉賛会という団体を立ち上げ、東京を世界に誇る帝都にしたいという事で、明治天皇と由緒のある代々木の御料地の跡に作る事になりました。  候補地としては39件に上っていました。(富士山、筑波山、箱根山など)   東京の候補地の近くには練兵場がありほこりが舞い、煙突があり煙害でもありました。  環境に強い森つくりに取り組んでいます。    渋沢栄一、東京市長阪谷芳郎といった有力者により人口の森を作るんだという事でした。   明治神宮の森のグランドデザインを作ったのが、東京帝国大学の本多 静六教授。 本多教授の教室にいた本郷 高徳さん(講師)が現場の実務を担ったかたです。 二人ともドイツに留学して林学を学んでいます。   上原啓二さんは本多教室の大学院生でした。(23歳) 上原さんは明治神宮の造園現場で学んだことを博士論文にまとめ、その後東京農業大学の造園科学科の創設者となります。  

明治神宮を作るにあたって3大美談があり、一つ目が渋沢栄一たちが民間運動を展開したこと、二つ目が森つくりをするため、全国から延べ10万本の樹木が寄せられたこと、三つ目が造営工事に当たり、全国各地の青年団の造営奉仕があったことで11万人です。   引き込み線を作って全国から寄せられた予想以上の数を処理しました。   青年団の造営奉仕活動については「青年団の父」と呼ばれる田澤 義鋪さんという方の活躍がありました。  地方青年の育成に力を注いだ方です。  青年リーダー研修として活用できないかという考えでそれを実現しました。   明治神宮鎮座の翌年に全国青年団の拠点が作られ、それが日本青年館で今年設立100年を迎えます。  

森に入ると騒音も聞こえず、真夏には森の中に入るとホッとして森のありがたさを実感します。   森で種類の多い木は楠、樫、椎と常緑広葉樹で東京の気候風土に合わせた樹木として常緑広葉樹を植えることを選択しました。  煙害にも強い樹木でもあります。   最初は常緑広葉樹で作る事には大隈総理大臣が大反対したが、本多 静六教授も最初は針葉樹の明治神宮を作ろうと思っていた。  当時は神社と言えばスギ、ヒノキのイメージが一般的だった。  科学的な判断が決め手になりました。  渋沢は本多教授を呼んで自分たちの想いを伝えて、どうしても東京に人工の森を作りたいという事で、説得する。  本多 静六教授と本郷 高徳は同じ埼玉県の出身で信頼のある仲間だった。   同じ埼玉の渋沢からお金はいくらでも出すからと、の森を君たちの学問と技術で作ってくれと言われて自分達は一生懸命になったと後述している。  情熱と情熱のぶつかり合いという、とてもいいエピソードだと思います。  

上原啓二が大阪の堺にある常緑広葉樹の茂る仁徳天皇領を見て、それをもとに大隈総理大臣らを説得する。  「林園計画書」を立てる。 100~150年かけて自然の森を作る。予測図が4段階あり、①植えた当初 ②50年後 ③100年後、④最後の林相   大がかりな森の健康診断は50年前にありましたが、ここで委員会を結成して森の健康診断を実施しました。  常緑広葉樹の森に遂げつつあるという事、2800を超える生き物がはぐぐまれている、という事が判ってきました。   ヒートアイランド現象で土が乾燥してきて土壌の中の生物が減少している報告もあります。   若い造園学者、東京農業大学の本多先生の後輩の研究者たちが明治神宮で研究会を開いています。   明治神宮はドイツの造林文化、森林美学などを含めた多面的な文化が導入されていると思います。  

2000年から明治神宮に奉職。  東京大学で比較日本文化論を専攻、神道学を学び、明治神宮の研究に至りました。   大学の時には合気道をやっていて、合気道部の本部道場が明治神宮にあったのがご縁になりました。  卒業後鎮守の森、里山の間伐をして間伐材を炭焼きするというボランティアをしていました。   或る時自分も神主になろうと思って、会社を辞めて国学院大学に学んで、神職の資格を取りました。  20年前に研究職として明治神宮に奉職しました。   それまでは出版社に勤めていました。   生まれも育ちも岩手県の田舎で伝統の習俗であったり文化であったり、そういったものにどっぷりと浸かって好きだったという事が私の原風景かなと思います。   研究職となり、ロンドン大学、フランスの国立社会科学高等研究院に勉学しました。   明治神宮では外国人が半数以上占めます。 20年前は外国人のVIPの参拝や海外の大学の受け入れなども多くなってきて日本文化や明治神宮の歴史を外国語で伝える国際力が求められるようになりました。   そこで留学の機会を明治神宮から与えられて、明治神宮の歴史を英文で書いて博士号をとって来いと言うミッションを与えられました。   明治神宮を海外からと内側からの両方の視点から明治神宮の歴史を考察するという事はとても大きな発見があったと思います。 

鎮守の森としての内苑だけではなく外苑、神宮球場とか渋沢栄一たちが作った明治神宮は内苑のほかに外苑があるわけです。  表参道も明治神宮と同じ年に誕生するわけですが、これも明治神宮造営プロジェクトで作られた場所であると考えると、日本の歴史だけではなくて、近代スポーツの歴史であったり、街路の道の歴史といったものがかかわってきて、日本の文化だけでは完結しているものではないわけです。  街つくりの思想も関わっているわけです。  明治神宮の研究を通して比較日本文化というものに改めてたどり着いたというような状況です。  近代絵画の美術館、歴史館なども海外での見聞がとても生かされていると思います。   とても重層的な空間として作られました。  

「明治神宮 内と外から見た百年 鎮守の森を訪れた外国人たち」 新しく出版。     明治神宮を訪れたたくさんの外国人が登場します。  内と外から百年の歴史を見るというものです。