小関智弘(元旋盤工・作家) ・鉄を削り見えた喜び
85歳、東京大森に生まれた小関さんは都立大学付属工業高校を卒業したあと、町工場で旋盤工の見習いとして働き始めました。
元々器用ではなかったという小関さん、どうやったら旋盤で鉄を上手く削れるようになるのか、試行錯誤を重ねながら独自の方法を編み出しました。
鉄を削るのは面白い、そう思えるようになった小関さんが一方で力を入れてきたのが文筆活動でした。
旋盤工としての日常を主なテーマに小説やルポルタージュを書き続け、1977年に直木賞候補に1979年には芥川賞候補になりました。
町工場で仕事を続ける人々のたたずまいや息使いを文学で表現してきた小関さん、自らの体験をどのように伝えてきたのか伺いました。
元気そうに見えますが、毎朝5から6錠の薬を飲んでいます、それほど大きな病気はしていないですが。
私の生活を支えているのはあくまで旋盤工でして、書いてきたことはほとんど旋盤工として働いて得たものを書いてきました。
元旋盤工が第一義だと思って通してきました。
1951年から2002年まで旋盤工として働いてきました、正味51年間になります。
家が魚屋で次男坊です。
父は酒好きで樽が家に置いてありました。
羽ぶりのいい魚屋だったが、戦争がはじまると魚屋を辞めてしまって、父は弟と二人で小さな町工場を始めました。
自分の工場を持った途端に空襲で焼かれてしまって、その3日後に父は軍隊への召集の命令が有りました。
戦後、父はアル中になってしまいました。
貧乏な生活を送ってバラックで7年間近く暮らすことになりました。
工業学校に入ったが、戦後新しい学制が出来て、工業学校が無くなってしまって、普通の中学、高校になりました。
その後又工業高校になってしまいました。
家を建て直すには働くしかないと思って、旋盤工見習い募集の張り紙があり尋ねて行ってそこで働くようになりました。(私を入れて3人の工場)
たまたま旋盤が一台空いていたため、雑用の合間に旋盤を使うことができました。
それが幸運でした。
旋盤は鉄の棒を回転させて刃物をあてがって鉄を丸く削る機械です。
1975年「粋な旋盤工」は働き始めた頃の内容。
鉄を削ると言うことはどういう事なのかを親切に上手に教えてくれました。
精度1/100mmとはどういったものなのかを髪の毛を使って具体的に教えてくれました。
私が鉄を削る感覚を最初に教わった出来事でした。
或る時鉄材を吹っ飛ばしてしまい、危うく職人さんの頭に当たるところだったが、大丈夫だったがその人から怒鳴られて頭を殴られてしまって、その工場をやめることにしました。
その後転々といくつかの工場を渡り歩くことになりました。
他の機械の操作を学んだり、そこでの職人、女工さんの生活を見聞きしたりしました。
その後結婚して子供が3人になりました。
給料が不足して5000円アップする交渉をしたが、そのことは他へは内密という条件だったがそれはできないと言ったら、恩をあだで返すのかといわれて辞めることになりました。
4万円を出すという会社に行く機会が出来たが、一緒に入った藤井さんという人が非常に優れた職人さんでした。
道具を非常に工夫する人でした。
この人から学ばなけばいけないと思って、技術を盗めるだけ盗もうと思いました。
自分は不器用なので、メモを取っていきました。
ノートを取りながら鋼を削る楽しさを段々発見していきました。
あたらしい鋼がどんどん開発されて、その鋼を工場で削ると言う事をやって行きました。
藤井さんとの話の中から、日本の工場には私の知らない色んなことが蓄積されているんだと言う事に気が付きました。(本には書いていないもの)
ノートに記載されている具体例:タービン翼車 材質がインコロイ901 この時代にようやく開発されたもの。 具体的な加工条件、作業が記載。
記載されたものをもとにして新たに色々と工夫する。(工具、時間などを工夫)
鋼を削ることの面白さを益々感じました。
現場に蓄積されてきたものの技能は凄いものがあると言うことに気が付きました。
削ってきた人たちの姿があらためて見えて来ました。
本の好きな人が集まって読書会をやろうと言うことになり、文集も出そうと言うことになり、1959年に出しました。
いつか1冊でいいから人々の心を揺さぶれるような小説を書きたいという夢を持っていました。
1960年に『ファンキー・ジャズ・デモ』という原稿用紙20枚程度のものを書きました。
それが認められて野間宏さんが書評をつけて下さったということがありました。
1973年に「思想の科学」という雑誌が有り編集者が来て書かないかとの話がありました。
「粋な旋盤工」というものを書きました。
それが注文が来るようになったきっかけです。
その後書いていって30冊ぐらいになりました。
小説、ルポルタージュ、エッセーといったものです。
1977年に直木賞候補に1979年には芥川賞候補になりました。
まさか候補になるとは思いませんでした。
1981年 『大森界隈職人往来』で日本ノンフィクション賞受賞。
旋盤の前に立って、その目線でありのままに書いてくれればいいと言われてて書くことになりました。
2足のわらじとか言われるが鉄を削る楽しさが判って、旋盤工だと言う思いが自分の中にあります。