ちばてつや(漫画家) ・原点は屋根裏(2)
友達とわら半紙などに鉛筆書きで描いてお互いに見せっこをしていました。
母親がひきあげてきた後「主婦の友」に勤めていたが体調を崩して、伏せっていた所母親の友達がお見舞いに来てくれました。
母は私が漫画を描いて困っていることをその人に愚痴ったようです。
児童漫画家募集という新聞広告をその人が母親に内緒で見せてくれました。
仕事を貰えるかと思って今まで描いたものを持って行きました。
見せたたところ鉛筆書きだし、これはひどいねと言われました。
出版社に出入りしている漫画家の原稿が有って、それを見せてくれました。
綺麗に描いてあって吃驚したことを覚えています。
漫画の基本の基本を教えてくれました。
試しになんか書いてみるかと20枚位紙をくれました。
帰りに教わった付けペンとか墨汁を買って帰りました。
母親などに知られないように、寝静まるのを待って少しづつ描きました。
そこの社長が石橋国松さんでした。
その後ですが、少年マガジンで「ハリスの旋風」という漫画を描いた時に、主人公の名前にしました、「石田国松」ですが。
20枚、30枚、25枚描いて持って行って渡しましたが、駄目だとは言わないでその都度紙をくれました。
合計128枚で終了して合格と言ってくれるのかなと思ったら、「御苦労さん」と言ってお金をくれました。(3カ月ぐらいかかって描きました。)
1万2351円でした、私が生まれてはじめてもらった原稿料でした。
1円はこの年に初めて出たアルミの硬貨でした。
当時の大学の初任給位でした。
家は貧しかったので喜んでくれると思って、母親にこのお金をみせたらまだ漫画を描いているのかと怒りましたが、母親が会社に電話をしてお金の出所は信じてくれました。
少女漫画を描くようになり、その後少年漫画の「ちかいの魔球」を描きました。
週刊誌に描かないかと誘いがあり描くのが遅いので逃げ回っていたが、1年後に資料から全部そろえるのでと言われて、引き受けました。
それが「ちかいの魔球」でした。
野球のことはあまり知らなくて担当さんがシンカーとかスライダーとかをキャッチボールで教えてくれました。
座りっぱなしの仕事なので夜良く眠れない事が多くて精神的な病気になっていたようでしたが、キャッチボールをした途端に身体も頭もがすっきりしました。
運動不足だったことが判りました。
他の漫画家さんにも声を掛けて運動をするように勧めました。
「紫電改のタカ(しでんかいのタカ)」戦争もの。
執筆理由は、戦後15年ぐらいたっていたころに、ゼロ戦、とか戦艦武蔵とかの漫画が出ていたが、かっこよくてヒーローになっていて、戦争を賛美しているのではないかと思いました。
怖いなあと思いだして、戦争はヒーローなどいなくて加害者も被害者も全部犠牲者になる、そういうことを忘れてはだめだと思いました。
「きけわだつみの声」なども私は読んでいまして、そう言う人達の気持ちを少しでも伝えられないだろうかと思って、問題提起をするような漫画を描くことにしました。
紫電改は終戦末期の性能のいい戦闘機ですが、特攻で使われる悲しい運命の戦闘機でそれに乗った若者の人生を語る話なので話が重くなってしまうが、描いてよかったなあと思います。
16,7~25,6歳の若者達が武器になって死んだ行った人達、その人たちが残した遺書、手紙などを見ながら書いたので、その人たちの気持ちが少しでも伝わればいいなあと思って描きました。
「ハリスの旋風」でもボクシングが出てくるが、それが「あしたのジョー」に繋がっていきます。
「あしたのジョー」は1968年(昭和43年)~1973年(昭和48年)まで29歳~34歳まで描いた作品。
最初から登場人物、筋書きなどはある程度考えていました。
梶原一騎さんと組んでみないかと言われ一緒にはじめました。
私の持っていないものを沢山持っていました。
今思うと梶原さんと組んで良かったと思います。
これは描き始めて50年になります。
漫画を描き始めて疲れが出てきた頃だったのではないかと思います。
色々重なって十二指腸潰瘍とか病気をしましたが、いまは治って元気になりました。
読み返すと直したくなるので、読み直さないようにしています。
力石が死んでしまったということでジョーが苦しむが、キャラクターと同じ気持ちにならないと表情がうまく描けなくて、そんな場面を色々描いているうちに自分がおかしくなってしまいました。
疲れも重なって何度か倒れてしまいました。
梶原さんは力石の風貌を気に入ってくれました。
ライバルとして生かしていきたいと考えた挙句に地獄の減量の話を思い付いてくれました。
ジョーは生命力の全部を出しつくした、それは自分の為でもあるし、力石などの男たちに対する礼儀として、それをしなくてはいけないということから、炭が真っ赤に燃えて白い灰になる、それをイメージしました。
抜けがらだけが残っているというイメージであの絵を描いたんですが。
ラストは負けてしまいます。
「のたり松太郎」はビックコミックという大人の雑誌からの依頼。
母親がつい私の雑誌を見て夜這いの事などを書くと怒る訳です。
私はもう40代だったし、読む年齢層も30代とかですが、理解してくれない。
母親からいつも検閲されていました。
母親が92歳で亡くなってこれでのびのび描けると思ったが、一度そういったことが刷り込まれているので怪しげなシーンは描けないです。
手伝ってもらっているうちに、兄弟皆漫画の関係の仕事をしています。
宇都宮の文星芸術大学の漫画専攻の先生を13年やっています。
「一日一回暑い汗をかけ」と言っています。
漫画は紙と筆記具があればドラマが描ける。
人間の気持を共感するものを作る、こんなに素晴らしいものはないなと思っています。