吉屋えい子(姪) ・【わが心の人】吉屋信子
吉屋信子さんは明治29年新潟県生まれ、大正5年に発表した「花物語」がおおくの女性たちの心をとらえ人気作家となりました。
その後も女性を中心にした作品を書き続け、女性たちの支持を受け活躍しました。
昭和48年7月11日亡くなられました。77歳でした。
私の父は信子さんの兄なんですが、2歳上でした。
信子さんの父親は頑固な男尊女卑的考え方を持っていたので信子さんとは合わなかったかも知れません。
祖母も女性はこうであると、父と同様の考え方でいた。
しかし、信子さんは全く逆の道を行ってしまいました。
伯母信子さんは6人兄弟の紅一点でした。
いやいやながらおけいこ事をやらされたようです。
小さいころからものを書くことは好きだったようです。
栃木県で少女時代を過ごす。
栃木高等女学校に入学した際、新渡戸稲造との出会いが有った。
「これからの女性は、女性ということであるだけでなく一人の人間としてやっていける様な人間でなければだめだ」という事を話したそうです。
それに同調し大きくうなずいて、講演の後で学校の先生から注意されたそうです。
一時期代用教員をするが、作家になりたいと東京に出てくる。
(両親は反対するが2番目の兄が応援する)
「花物語」で人気作家となる。
「良人の貞操」ではその頃としては勇気のある作品だったと思います。
非常に信念の人だったと思います。
私は割と短編が好きです。
「安宅家の人々」も好きです。(男性を主人公にして書いている)
主人公は豊かな人物ではあるが、障害を持って生まれてくる。
その後、『大阪朝日新聞』の懸賞小説に当選した『地の果まで』で小説家としてデビュー、徳田秋声らの知遇を得る。(徳田秋声がその小説を一番押しくれた。)
私が読んだ時に平凡な内容ですが、内容があると思いました。
「徳川の夫人たち」などは整って素晴らしい物語ですが、そういったものとは違って彼女の原点というかそういったものを感じる小説です。
数少ない男性を主人公にした小説の中にこれぞ男性の生き方と考えていた男性の姿がその作品の中に現れている。
『底のぬけた柄杓 憂愁の俳人たち』 東大を出て保険会社に入り課長になったりするが、自由人で、長く勤められないで無人のお寺を渡り歩いた人で、信子はその人が非常に気になり彼のことをメモをとったりしていました。
その人のことを信子さんは非常に気になって、人間って生まれた時にすでに底の抜けた柄杓をもって生まれる人がいるんだろうかと、ずっとこの人のことを思い続けて来ました。
人からなんて言われようと自分の生き方を貫く、そういう方が好きだった。
早くから断髪、和服から洋服にする人でした。(自由人に憧れていたと思います。)
父が子供の頃信子さんと喧嘩して、父が味噌汁のお椀を投げつけられたという話だったが、後年或る時にその話は逆で父がお椀を投げたということでした。(父が家を建てる時に騙され、信子さんに他の人が借金の依頼に行った時の話)
父は信子さんの事を一切喋らず亡くなりましたが、嫌いだったかというとそうではなくて
信子さんの小さい記事を含めて切り取ってスクラップしていました。
信子さんと最初に出会ったのは私が小さい頃、親戚の子が出征するということで、上野のレストランに親戚が集まった時でした。
私は高校生の時に短編を書いて、伯母に見てもらおうと考えました。
母からは秘密にして見せようとしましたが、取り次ぎの壁としての門馬千代さん(女学校の数学教師)がいるので・・・。(見せられなかったか?)
信子さんは昭和の初めにヨーロッパのパリで1年近く暮らしたこともありました。
その後ずーっと鎌倉で一緒に住むことになります。
門馬千代さんに短編を渡したが、信子さんが見てくれたかどうかは判らず返してくれまして、門馬千代さんから他の人(北畑さん)に見せるようにとの指示をいただきましたが、その後捨ててしまいました。
二人の方の深い絆を感じました。
戸籍上門馬千代さんを養女にして、信子さんを看取って今は家は鎌倉市の所有の吉屋信子記念館になっています。
中谷宇吉郎さんとは親交が有ったが、中谷宇吉郎さんが亡くなった時に奥さんに宛てた遺言が公表されたが、「人には親切にしましょう」と信子さんはそれを見てなんと美しい遺言だろうと言っていました。
「私の見た人」という随筆の中に中谷宇吉郎さんの事を書いています。
今の時代だったら門馬千代さんと一緒に女性同士で暮らすというようなことは特に問題視されない、多様性のある生き方。