2018年7月17日火曜日

櫻川直太朗(幇間)           ・62歳からの幇間デビュー〜二足のわらじ人生〜

櫻川直太朗(幇間)     ・62歳からの幇間デビュー〜二足のわらじ人生〜
今から5年前、62歳で幇間としてデビューしました。
幇間はお座敷などの場を盛りあげ座を取り持つことを職業とする男性。
男芸者や太鼓持ちを言われることもあります。
幇間では全国でも数が少なくなっています。
本名は近藤直樹さん、本業は不動産会社の社長です。
昼と夜、それぞれ二つの顔を持つ2足のわらじ人生について伺いました。

幇間は男芸者や太鼓持ちと言われることもあります。
江戸吉原で元禄時代に認められた生業です。
遊女、大夫と旦那さんを結びつける、あるいは芸者と旦那さんを結びつける。
旦那さんの悩みを聞いたり座敷のコンサルタント、お妾さんのお世話をといったこと。
現代は接待する方と接待される側を取り持つ。
会話の相手をしたり片苦しい世界をリラックスさせたり芸をしたりするのが仕事です。
67歳になります。
名古屋で生まれて実家は木材業でした。
父が継いでほしいと言われたが、なかなか合わなくて父とか従業員と喧嘩をしたりして2年半ほどして叔父の所に修行に行って来いと父から言われて、そこは不動産会社のデベロッパーで不動産の勉強をしました。
戻ってから建て売り業をやったいましたが、32歳で3回目(小学校、中学校)の結核になりました。
今まで懸命に頑張ったのに何だったんだだろうと思いました。
後は余命だと思って人生を捨てまして、楽しもうと思って遊興の世界に入りました。

不動産は遊びにたけた人が多くて、名古屋の錦3丁目の歓楽街に行き興奮しました。
歌を作ったり歌手でデビューもしました。
お座敷芸人もなりました。
叔父が中古販売の社長をやっていて或る時三河漫才の相手をして欲しいと言われました。
そこから舞台に立って感動を味わいました。
母のアドバイスで結婚式場専門の歌手になりました。
褒めて褒めて褒めまくる当日だけに歌う歌を作って歌いました。
昭和63年に悠玄亭 玉介(ゆうげんてい たますけ)の新聞記事を見ました。
悠玄亭 玉介さんの料亭での様子をTVで放映されました。
その芸を見て歳を取ったら艶のある色気のある男でありたいと思って太鼓持ちになりたいと思いました。
年老いた良さがありました。
60歳になったらこれをやろうと決意しました。(38歳の時でした)
悠玄亭 玉介さんは当時81歳でした。
清潔感があり踊りに熟練された神がかり的な雰囲気がありました。

57歳位の時に名古屋のNHK文化センターでカッポレの踊りの教室があって、そこへ勉強に行きました。
3年たって櫻川流の名取りになりました。
櫻川千代助師匠(幇間名「悠玄亭千代介」)が悠玄亭 玉介師匠の直弟子でした。
師範になったら教えてあげるということで幇間の芸を教えていただきました。
平成25年に幇間に正式になりました。
名古屋界隈の財界にバックアップしてもらってデビューし、感激しました。
52歳で脳梗塞をして舞台には出られないと思いました。
妻はあまり理解しない様な立場でしたが、脳梗塞のリハリビをして9カ月後に老人ホームに慰問に行く約束があり、行きました。
妻から健康回復のために幇間をやらしてもらえればと言われました。
しかし、或る時芸人の妻にはなりたくはありませんと言われてしまいました。
私は近藤直樹の妻ですが、櫻川直太朗の妻ではありませんとビシッと言われました。
娘たちは舞台に手伝いに来たりしています。

本業あっての幇間です。
一に仕事です。
幇間は憩いの場、リフレッシュの場です。
社長と芸人の考え方のずれは本当に感じます。
幇間は下からの目線でやらないといけない。
お客さんによっては色々立場が逆転してしまうようなことがあり、「よいしょ」をしなければいけないこともあります。
空気を呼んで「よいしょ」をする。(相手の気持ちを読む)
守秘義務は守らないといけない。
若い人はなかなか難しい、あらゆる方とあらゆる話題に付いていかないといけない、且つ否定してはいけない。
幇間を知ってもらう取り組みをしていますが、料亭にいけるものしか見れない。

芸を見ていただくためにホテルで見てもら事もありますが、本来お酒の席での芸なので
難しい面もあります。
敷居を下げることはなかなかできない。
親の面倒を見ていたが老人ホームに入ることになり、母が食べなかったり話さなかったりストライキをして、ヘルパーさんから私達も助けるから腹をくくって面倒みなさいと言われました。
夜中の10時~2時が私の担当時間になりました。
排泄の処理が大変でした。
(地震報道の為中途ですが、終了間近)