2018年7月30日月曜日

本田優子(札幌大学教授)         ・アイヌ文化の魅力を伝えたい

本田優子(札幌大学教授)         ・アイヌ文化の魅力を伝えたい
今年2018年は北海道と呼ばれるようになって150年目、2020年には白老町に国立アイヌ民族館が開館します。
そうしたなか北海道庁から150年事業アドバイザーに委嘱され、国のアイヌ総合政策推進作業部会委員をされているのが、札幌大学の本田優子さんです。
本田さんは金沢生まれ北海道大学に進学、そこでアイヌ民族でアイヌ語研究者の萱野茂さんの事を本で知りました。
大学卒業後萱野さんが暮らす二風谷(にぶたに)に移り住みアイヌ語を学びながら過ごしました。
その後札幌大学に着任し2010年、学内にアイヌの学生に対する奨学金制度を創設するとともにアイヌの学生もアイヌではない学生も一緒にアイヌ文化を学ぶ「ウレシパクラブ」を学内に立ち上げました。
ウレシパとはアイヌ語で育て合うと言う意味だそうです。
アイヌ語、アイヌ文化の魅力、今後の夢などを語っていただきます。

おばあちゃん子だったので金沢弁をおばあちゃんとあるいは友達と喋っていました。
チャイムが鳴ると標準語に言葉が切り替わります。
或る時何故だろうと授業中に金沢弁で喋りました。
先生からお前馬鹿にしているのかといわれて、ショックで言葉の裏に権威、権力があるのかなあと思いました。
北海道大学に進学して、あまり勉強しないで居たら友達が本を貸してくれて、その中に萱野茂さんが出て来てアイヌ語を取り戻すために頑張っているのを知りました。
同化政策の為にアイヌ語を捨てさせられたという事を知りました。
自分の中の金沢弁とアイヌ語が結びついてアイヌ語に対する原体験かなと思います。
卒業論文は明治時代の開拓史のアイヌ政策ということで歴史の論文を書きました。
カルチャーセンターで萱野先生がアイヌ語の授業を持たれていてそこに参加しました。
大学院に進もうと思っていましたが、いまのアイヌの方がどのようにされているのか判らなくて1年間萱野先生のところに居候しました。
アイヌのコミュニティーでアイヌの子にアイヌ語を教える事を萱野先生が始めて、その仕事、アイヌ語の辞典編纂の助手としても手伝うことになりました。

先生が夏に病気になりアイヌ語塾をつぶすわけにもいかず、アイヌ語は知らなかったが苫小牧の入院先に通って教わりながらアイヌ語塾で教えることをやっているうちに楽しくなりました。
秋には永住宣言をして住み着いてしまいました。
結婚もして子供も生まれ11年暮らしました。
二風谷(にぶたに)にいて子供達がアイヌのおじいちゃん、おばあちゃんがたが色々教えて下さってうちの子は結構ものしりです。
知的好奇心をアイヌの方からきっちり仕込んでもらったからだと思います。
子供達は自分たちのパワーの全ては二風谷(にぶたに)に有るとしょっちゅう言っています
下の子は物をこぼすんですが、私はつい叱ってしまいますがアイヌのおばあちゃんがたは「怒るんでない、いま床の神様が飲みたかったんだから」とおっしゃいます。
子供はふーっと楽になる訳です。

長男はせわしない子でストーブにぶつかって、ワーッと泣こうとした瞬間に萱野先生は「泣くんでない、今ストーブの神様は痛いんだから撫でてあげなさい」と言うんです。
後で判ったんですが、なんてすごい教育だろうと思いました。
自分が痛い時はぶつかられた相手も痛い、瞬間に痛みを他者と共有する、そういうことを一杯子供は教えていただきました。
アイヌ語は正直難しいところはあります。
音節末子音といって、母音がくっつかないし、音(イン)だけで終わる音がある。
ア(AP)→魚取りの道具 (あっぱれと言う時のぱを言わない)  ア(AT)→おひょうと言う木の皮の内皮(暖かい たを言わない)
ア(AK)→弟(明るいのかを言わない)
舌の位置が違うアイヌ語の独特な発音。

萱野さんはかっこいい人です。
アイヌでは村長(おさ)の3つの条件がある。
①雄弁 ②度胸がある  ③かっこいい(堂々としたかっこよさ)
村同士がいさかいが起こった時には村長(おさ)同士が村人の前で談判をする。
出て行くときに相手が負けたかも知れないという押し出しのきくカッコよさ良さがリーダーの条件だったらしい。
萱野先生は3つの条件を持っていました。
おだやかなひとでしたが子供たちに一度だけ怒りました。
川のそばでおしっこしようとしたら「そこでするんではない、山でしろ」と怒鳴りました、
川には「ワッカカムイ」という水の神様がいて決して汚いものを絶対直接流してはいけないと言う、アイヌ社会のタブーでした。
土の神様は汚いものを綺麗なものに変えて「ワッカカムイ」に運んでゆく役割があると云うことです。

「役割無く天から降ろされた物は一つも無い」という言葉があります。
アイヌの世界観の根底にあります。
萱野先生はだれに対しても変わらない、みんな呼び込んで家に或るものを食べて行きないなさい、だれに対してもとおもてなしをする。
「しょわされた荷物は重いけど、しょった荷物は重くない」と萱野先生が言っていましたが、私の座右の銘にしています。
「ヤイコシラムスイエ」 ヤイ=自分 コ=に対して シ=自分 ラム=心 スイエ=ゆらす
自分に対して自分の心を揺らす→考えるという動詞になる。
それまで考える力は脳みその力だと思っていましたが、アイヌ語から考えると違うんです。
自分に対して自分の心をどういう振れ幅でどう揺らすのか、それが考えると言うことだと思うからそういうアイヌ語が生まれてきたんだと思います。
アイヌ語には世界観が広がっていると学生には言っています。
日本語で「考える」は何だろうと大辞典を引いてみたら 「かむかう」とかいてありました。 か=彼 向こうに向かうが日本語の「考える」 アイヌ語では自分の心を揺らす。
民族の言葉には世界観が広がっていると私は思います。
だから民族の言葉をきちっと守っていかないといけないと思っています。

2005年に札幌大学に採用されて、アイヌ語、アイヌ文化を専門とする教員で採用されたのは日本で初めてのようです。
ゴールデンカムイ」 凄く面白い漫画あり大ヒットしている。
学生たちがアイヌ文化に興味を持ってゼミなどに来てくれます。
二風谷(にぶたに)で教えて頂いて感動したことを学生に教えて行きたい。
人間五感で覚えたものは忘れない、萱野先生は五感で気づかせる教育をやってらっしゃいました。
自然の中でアイヌ語を教えたりしています。
「ウレシパプロジェクト」 「育て合う」 核となるのは「ウレシパ奨学制度」
アイヌの若者達の進学率は全道平均の半分を遥かに下回っていました。
若者たちにアイヌ語文化を学ぶ場を提供したかった。
アイヌの文化を全く知らずにいて何としても教育だと思っていてそういう場を提供したいと思いました。

第一期生の女の子 小学校の時に自分の人生に大学にという選択肢はないと思ったという。
大工さんの専門学校に行って、北海道大工さんコンクールで2位になって、北海道庁に推薦されるはずだったが地元の役場で働くことになり、「ウレシパプロジェクト」の事を知って応募してきました。
自分はアイヌということで物凄く差別されて虐められてきたので、人からはアイヌだと言われても自分からは口が裂けてもアイヌと云わないで生きてきたが、ここでアイヌ文化を学んで生きて行きますとポロポロ泣きながら言って来ました。
ダントツの成績で、自分の縫った民族衣装を着て大ホールの段に上って学長から総代として卒業証書を受け取りました。
プロジェクトを立ち上げて良かったと思います。
プロジェクトの事を提案した前の年、2008年がリーマンショックで影響が厳しく学費未納で沢山の学生が除籍になり、どうしてアイヌの学生だけが良い目に会うのかと言われたが、文化学部の多様性とか理念を謳っていて、多様性はルールだけではなくて多様性を作る場をという事でアイヌの若者と同時に学部が掲げてきた事の他者の為の多様性を真に学ぶための教育プログラムだと言う事を訴えて実現していきました。

「ウレシパプロジェクト」のアイヌではない若者たちは北海道を変えて行くモデルになりうる存在だと私は思っていてとても大事だと思っています。
日本社会がアイヌ文化について理解を深めて行っていただきたいと思います。
2020年に白老町に国立アイヌ民族館が開館します。
アイヌ文化の受け皿 民族共生の象徴空間ということでそこで働きたいという学生は沢山います。
ハワイはアメリカに統合されてからハワイ語が奪われてしまっています。
1983年にハワイ大を出た子が子供をハワイ語で育てたいと言うことで、その後小中校大学までハワイ語だけで授業を行う学校が作られて展開されています。
アイヌ語を北海道の公用語に出来ないかと思っています。(日本語には公用語が無いので)
ニュージーランドの公用語は今3つあり英語、マオリ語、手話です。
公用語は宣言だと思いました。
北海道の公用語のひとつだと宣言しても良いんだと私は思いました。