2018年7月31日火曜日

石田衣良(作家)             ・【母を語る】

石田衣良(作家)             ・【母を語る】
1960年東京生まれ、成蹊大学を卒業後就職することに疑問を感じて、フリーターをしていましたが、1986年母親が突然亡くなったことをきっかけとして広告会社に就職、その後コピーライターとして独立、1997年池袋ウエストゲートパークでオール読物推理小説新人賞を受賞し作家デビューをします。
2003年『4TEEN』で第129回直木賞受賞
2013年『北斗 ある殺人者の回心』で第8回中央公論文芸賞受賞
今年4月には若者の目を通して今の時代の愛の形を描いた少年シリーズ第3作「爽年」を刊行しました。
時代の空気を敏感に感じ取る作品を次々に書き続ける石井さんに若くして亡くなった母への思いを話していただきます。

今は新聞小説の連載をやっています。
映画も成人映画指定ですがヒットしてくれました。
「娼年」「逝年」「爽年」
主人公が成長するに従って、物語の核になるようなものが字になっている。
タイトルは私が考えました。
本名は石平庄一(いしだいらしょういち)
父と母が商売をやっていたので放っておかれて静かに本を読んで居ました。
兄弟は4人、姉2人、妹が一人です。
男は一人で大切にはされましたが、どこか痛かったりすると周りが大騒ぎするので我慢して過ごしました。
学校でも静かに本を読んでいるようなタイプでした。
手広く商売をやっていたので僕と妹にはそれぞれお手伝いさんが付いていました。

母は仕事が大変だったので、ホワイトカラーになった方がいいのではと言っていました。
母は都立第七高女(女性教師を養成するための学校)をでたあと、商売をしていることに対して、オフィスワーカーをしたかったということはあるかもしれません。
6,7歳ぐらいから自分で本を買って読んでいました。
安い文庫本を片っ端から買っていました。
作家にはなりたいとおもったが、海外の出来のいい作品を読んでいたので、とても太刀打ちができないと思っていました。
小学校の低学年で誕生会で朗読する作品を書いたのが初めてです。
一番楽しかったのはラジオの深夜放送を聞いて話し合ったりした中学時代でした。
高校の時は体制が受験で、これはあまりに程度が低いなあと思って本を読み続けました。
国立大学の経済学部に行けとは母からは言われましたが、理科、社会、数学はめんどくさくて勉強しなかったです。
大学もあまり行かなくて留年して5年かかりました。
本のほかにアルバイトをして低い目線から世の中を見て学びました。

20歳代は棒に振っても30歳代に核になるようなものが見つかればいいと思いました。
母は、この子はエンジンみたいなものを持っていて自分で何かをやるじゃないかと期待感は持っていたと思います。
就職はしないで2年ぐらいアルバイトをしていました。
母が出先で倒れてくも膜下出血で突然亡くなってしまいました。
どっか会社に入って会社というものを勉強してみようと思いました。
母は50代の後半でした。
亡くなったことに対して衝撃でした。
母には一冊でいいから僕の本を見せたかったですね。
母が亡くなる3日間の間に、集中治療室に入っている人の年齢を書いた数字がホワイトボードに10個位書いてあって、3日間の間に72という数字が消えたり、新しい数字が書き足されたりするんですね。
それを見ている3日間は本当にしびれる時間でした。
0の子が亡くなったりもします。
ホワイトボードの事はいつかは書きたいとは思っていました。

コピーライターの広告会社に入りましたが、5,6年働いて自分には合わないと思いました。
その後フリーターとなって、小説を一本書いてみようと思いました。
入社試験では作文が上手くてプレゼンで叔父さんを笑わせられて知識がありそうだ、何かしら考えているんだなとその雰囲気が出せれば受かる。
そういうふうに思いました。
会社って余り仕事ができなくても給料はくれるし優しいなとは思います。
自分の時間を会社に取られるのが厭だった。
周りが忙しくて手伝ってと言われたが、定時で帰っていました。
1.5~2人前は仕事をしていたので余り周りからは言われませんでした。
有名な祈祷師がいて4,5歳の時に連れていかれて腕を持ってぐるぐる振り回されたんです、その後でその人が言ったのがこの子はなにをしても大丈夫、何の心配もいらないので好きなようにさせてください、と母に言ったんです。
この子は中に何かを持っているなということは判る、それに人間の格とか器は年齢とは違う、見ていればそれが判ると思う。

母を20歳代半ばで亡くしているので、マザコン的な作品があるが影響があると思う。
東京大空襲では母は高校生だったが、最初の焼死体見たときには両手を合わせたけれど、それから30分もすると死体をピョンピョン飛び越えて逃げるようになったと。
横になった電柱を飛び越えるように、こんな地獄のようなことは見たことはないと言っていました。
母の学校にはプールが無かったので隅田川のいけすのように囲ってそこで泳いでいたが、泳いでいる所を透明な白魚がキラキラ光りながら泳いでいたそうです。
そんな景色はすばらしい、悪い事ばかりではないと話していました。
音楽の元は自然の風だったり、木々の音だったりしてそれをモーツアルトとかが自分の中の変換装置でああいう音楽として出てくる。

僕の場合の変換装置は清涼感の描写を出す装置になっているんだと思います。
両親から受け継いだものがあるとしたらコツコツ働くことですね。
新聞連載小説「炎のなかへ」 母の話をもとに始めた東京大空襲の夜の小説です。
空襲の3日前からその日までの3日半の話です。
重いけど手ごたえがあります。
悲惨なだけでもない、愛国心だけでもない、普通に生きている人が空襲の夜にどうやって生きたのかという事をちゃんと書ければいいなと思います。
母に感謝するのは自由にしてくれたことです。(時間とか目的とか)
それとこの空襲の話だと思います、母から聞かなければ5~10年資料を集めているがそれが無かったかもしれない。