2018年7月13日金曜日

米田佐代子(らいてうの家館長)       ・平塚らいてうの思いを受けついで

米田佐代子(らいてうの家館長)       ・平塚らいてうの思いを受けついで
1934年(昭和9年)東京生まれ。
1950年戦後の男女共学の一期生として米田さんは長野北高校に入学します。
その後東京の都立大学で学び、1958年東京都立大学人文学部(史学専攻)卒業後、山梨県立女子短期大学教授として日本近現代女性史、主に平塚らいてうの研究に取り組んできました。
戦前女性は選挙権も無く、自由に意見を述べることができない時代でした。
「元始女性は太陽であった」の言葉を残した平塚らいてうは女性の自立、男女同権、命を大切にする、という考えを広く訴えて来ました。
米田さんは平塚らいてうの考えに共鳴し、その考え方を知ってもらいたいと人生をかけてこられました。

平塚らいてうの研究に50年以上関わっている。
最近これが平塚らいてうかなというふうに思うようになりました。
ペンネーム 「森のやまんば」 やまんばは恐ろしいイメージがあるが。
らいてうの家は標高1500m近い山中にあり、そに通っているから「森のやまんば」と呼ばれたのが始まりです。
野上八重子さんもやまんばと言っているし、、鶴見和子さんもやまんばについての短歌を残している。
人間はいつか歳を取っていくが、自然に還って行くのがやまんばという発祥の根底にあると鶴見さんがが言っていて、私もやまんばになりたいと思いました。
やまんばは決して恐ろしいイメージではない。

平塚らいてうは明治19年生まれで昭和46年まで健在だった。
平塚らいてうさんには一度も会っていませんでした。
「新しい女」「未婚の母」ということで大変な非難を受ける。
戦後憲法9条に共鳴し、戦争反対ということで強い信念で活動した方。
私が学生のころは関心が無かった。
私達のころは女性が学問をするということは独身でないと務まらないと思われていました。
それはおかしいと思って結婚して子供を産んだが、大変非難されました。
今から100年ほど前に平塚らいてうは奥村博史と出会って、奥村家の嫁になるのをしたくないということで結婚届けをださないで、平塚姓のままで同居する、いまでいう事実婚のはしりです。
子供は産まないと言っていたが身ごもって産むことにして、子供を産んでから子供の素晴らしさを思う。
命を生む女たちは子供達の為に戦争に反対し、貧しさを無くしていかなければいけないと社会運動を始める。
それで私は気に入ってしまったんです。
私も平塚らいてうみたいになろうと思いました。
女性の権利が全くなかった時代にそのことに気がついて発言したということが私を平塚らいてう研究に惹きつけた一番大きな理由です。
私は職場結婚で同姓になるのは不都合なこともあるので、そのまま米田の姓を名乗りましたが大変でした。

戦後学校ががらりと変わって、旧制中学と旧制女学校があったが、旧制中学は新制高校になって男女共学、旧制女学校は名門女学校だったので男性を入れない学校で、どっちにしようかと思ったが、女子ばっかりの学校には物足りないものを感じて長野北高に願書を出したら女性は2人しかいなかった。
二人とも合格してしまった。
一人女性の転校生が来て、全校で三人しかいなかった。
体育の更衣室も無く、女子トイレも無く全部一緒でした。
男子校に入ったからと言って女の子らしくすると言うことはありませんでした。
差別されずに面白かったです。

1945年8月15日は10歳で国民学校の5年生、兵庫県の福知山の近くの山の中に疎開していました。
玉音放送を聞きましたが雑音だらけで聞き取れなかった。
校長先生も聞き取れなかったらしく間違ったことを言っていました。
家に帰ったら戦争が終わったことを知りました。
姉が旧制女学校に行っていたが、私達との落差はありました。
私たちは軍国少女とか玉砕と言われても何のことか良く判らなかった。
戦後私たちは比較的素直に民主教育に順応しました。
兄や姉はそうはいかなかった様です。
終戦で電気を明るく点けていいということが最大の解放感でした。

母が一番喜んだのが、戦争に行った次男がまだ国内にいて帰ってくるはずだと思っていた。
しかし9月になっても帰ってこなかった。
9月中旬に戦死という通知がありました。
兄は15歳で海軍少年飛行士に応募して行きました。
1945年6月10日に茨城県土浦海軍航空隊で米軍の空襲の為爆死、16歳だった。
考え込んでいる次男(芳次?)の望みをかなえてやりたいという不思議な気分になってしまって、「海軍の飛行隊なら志願してもいい」と言ってしまった。
母は「今思えば一生の不覚でした」、と思い悩んでいたことを吐露している。
人間の魂は自分が一番大事にしているところに、誰にも知られないで死んでしまうのが辛いので知らせに現れるというふうに書いている人もいる。
松谷みよ子さんが母の本を読んでくださってこれは本当よと言って下さいました。
夢に現れると言う経験を母がして、心のつながりという事を求め続けているんだと凄く思いました。

インドネシアのカリマンタン(ボルネオ島)で父は軍人ではなかったが(今の郵政省の役人)、派遣されて行政を担当していて、ポンティアナックの街で日本軍による住民虐殺事件が起こっている。
現地では沢山の人が殺されている。
穏やかな町だったが陰謀があるという噂に海軍が震えあがって、罪のない人達を殺してしまったという事件で1944年6月ごろでした。
父親がいたならば虐殺事件にかかわったのではないかと記録を調べてカリマンタンに行って現地の人に聞きました。
結論的に言うと事件は事実として間違いがないが、2000人説、2万人説とかがあり研究中だが、虐殺現場には大きなレリーフが飾ってある。
しかしこの事件は日本ではあまり知られていない、父が関与したのではないかという事、もしそうだとしたら見過ごすことはできないと思っていた。
結論的に言うと父親はその事件がある何カ月前に、別の街バンジャルマシンという都市に転勤していたので事件には直接かかわっていないことが分かった。
親日的なインドネシアで日本のやった行為は忘れてはいけないと思います。
日本の戦争を反省する時に、そういった知られていないことがまだまだ沢山あると言う事を、世の中に出していきたいと思って出しました。

どんな場合であれ必ず戦争は無辜(むこ)の人々に犠牲を強いるという事を痛感しました。
戦争は二度としてはいけないのは、母の辛い思い、身近な父親たちも一歩間違えれば戦犯になっていたかもしれない様な、そういう経験を繰り返してはいけないと思います。
第一次世界対戦の後、平塚らいてうは新婦人協会という団体を作って市川房枝さんらと婦人参政権運動をやりますが、男性と同じ権利をと言うだけだと、男たちが戦争を引き起こしたと同じようなことを女たちがやってしまってはいけない、女性に参政権を与えると言うことは世の中が差別を無くすということになる訳で、差別が無いということは世の中が平和になること。
平塚らいてうはインタビューで言っているが、女性の権利は大事だと思ったが、権利を何のために使うのかといったら、平和のために使うふうにしたいと思った。
平和は女性の文化としての平和としての立場がある。
女性にとっての平和は戦争が無い状態だけではなくて、女性が文化的に豊かに生きて行ける。だから権利もあるし、幸せに生きて行く、子供を育てることができるというそれが平和なんだと言う事を発言しているが、それは本当に大事なことだと思います。
女性たちが平和を作りだすということは、命を産む、命を守るという立場なんだなあと思います。
自分の産んだ子が戦争にはいかないでほしいと思いました。
「私の生涯に無知による犯した数々の戦争犯罪を一人悔しむ。
意志?も叫ぶ、何百万の若者の死を何百万の母を忘れぬ。
戦争を引き起こしたものの重罪を一矢報いて墓に入ろう母たちは」と書きつけて90歳で母は亡くなりました。
平塚らいてうのいった女性が自ら立ち上がらなくてはいけないという思いと、母の思いが、私が何かやらなければいけないという原動力になっています。