ちばてつや(漫画家) ・原点は屋根裏(1)
社会現象にもなった「あしたのジョー」、連載開始して50年です。
今も多くのファンに読まれています。
ちばさんは1994年に大病して連載を休みましたが、18年振りに単行本「ひねもすのたり日記」を出版して今年第22回手塚治虫文化賞の特別賞を受賞しました。
ちばさんは1939年生まれ、生まれてすぐ中国に渡りました。
父が印刷工場で働いていましたが、終戦で中国人の友達に助けられてその屋根裏で弟たちに漫画を描いて過ごしました。
それがちばさんの漫画家の原点の一つだと言います。
17歳で漫画家デビューしたちばさんに伺いました。
「ひねもすのたり日記」 たった4ページの連載なのでそんなに内容は盛り込めないが、中国から引き揚げてきた時の思い出をぽつぽつと思いだしながら、詩を書くつもりで日常を混ぜながら描きました。
みずきさんが「私の日々」というのをビックコミックの巻末の4ページにずーっと描いていていいなあと思っていました。
みずきさんが体調が崩されて、ピンチヒッターのつもりで描き始めたが、描き始めて3回目の時ぐらいに亡くなられてしまいました。
6歳の時に終戦で日本に帰ろうかなと思ったが、帰れなかった。
短編で近況を語ったり漫画に描いたりしていましたが、休んでいる気はしなかった。
平成6年に心臓疾患、網膜はく離も見つかりドクターストップになってしまった。
妻がもう仕事ができないからということで8人いたスタッフに退職金を払って辞めてもらった。(私が知らないうちにやった事)
今右目はちょっとぼんやりしているが左目はよく見えます。
大病も色々処置をしてもらって徐々に良くなりました。
昭和14年生まれ、79歳、生まれてすぐ中国に行きました。
印刷工場の社宅に住んでいました。
工場の中には中国、朝鮮、モンゴルの人たちもいました。
6歳になったあたりからちょっといづらい雰囲気を感じました。
時には追い払われるようなこともありました。
8月15日終戦になり、工場に回覧板が回って日本人だけ工場長の家に集まれと言う事になりました。
大きな音がしてドアが開いて崩れるように大人たちが出てきて、顔を見たら青ざめていたり、怒鳴ったり、女の人は泣いていたりしていました。
私は何も知らずにいましたが、夕方になると会社の塀の外では物凄い爆竹が鳴ったり嬌声がしたりしていました。
中国人や朝鮮人が塀を登って入ってきましたが、その中に知り合いの大人の人もいました。
駈け寄ろうしたら母親から首を掴まれて家に入るように言われました。
社宅のガラス窓が割られたり悲鳴が聞こえて暴動が始まりました。
父親は身体が弱くて、暴動が始まった時には家にはいなくて、4人兄弟(一番下がまだ赤ん坊)で押し入れに入れて私はその前に立ちはだかるようにしていました。
母親は玄関に色んなものを置いて防御しました。
父親はシベリアに連れていかれそうになったが、身体が弱い人は外されて、父は帰ってきました。
暴動から逃げようとして夜中の12時に社宅を出ようとみんなで相談したようです。
母親は米を焚いておにぎりにして、9月でしたが冬の衣類を着せられて社宅を逃げました。
私と次の弟は歩いて親に付いて行きました。
靴が不良品でくぎがかかとにささってきて遅れないようにしていたが、そのうちにどうしても遅れてしまったが、足に血が出ているという事に父が気が付いて、釘をつぶしてくれました。
その時には我々一家だけが取り残されてしまいました。
周りからはぐれてしまったが、偶然一番仲の良かった除さんの親(父の同僚)と会うことができました。
日本人をかばったら大変なことになるからということでやりとりしたが、一緒に歩いて行って除さんの物置があり、屋根裏に案内されました。(6畳程度の部屋)
冬が来てとにかく寒い部屋だったが、なんとか過ごしました。
父は中国人の恰好をして徐さんと一緒に野菜類などを売っていました。
弟達は部屋の中にいて退屈で、最初母親が話を聞かせたりしていたが、話も底を付いてしまって、私は紙を大事にして持っていたので、ロバを描いてやったら喜んだので、紙芝居みたいに絵を描いて話をしました。
そういったことの繰り返しでした。
後に漫画家になったきっかけは何だったのかを問われる内容についてのことがあったが、自分では判らなかったが、弟が屋根裏での事をちらっと言ってくれてあの場面を思いだして、そのことを漫画のようにかきました。
父が行商みたいなことを手伝っているうちに日本人にもあって一緒に行動していた人達と会うことができて、徐さんと別れて日本人の団体に戻りました。
一冬を越すのに寒さ餓えに苦しみました。
確かな数字ではないが18万~24万人位の人が亡くなったとい言われてます。
亡くなるとその人の衣類、靴などを剥がして生きている人がそれを着る訳です。
帰ってきて歓迎してれた人もいますが、向こうにずーっと住んでいればいいというような感じを子供心に感じました。
母親の兄が世田谷に住んでいるということで尋ねましたが、焼け野原で母親が泣き崩れたのを覚えています。
父親の故郷の千葉に行くことにしました。
父親は食料品を扱う商売を始めて、その後バラックのような家を建てて父親と一緒に東京で暮らすようになりました。
母親は漫画を見ると子供は夢中になってしまって勉強しなくなるということで、それが心配で家には一冊も漫画はありませんでした。
教科書にいたずら描きをしていたら、絵が好きなら友達が漫画を描かないかと言いました。
その友人の家に行ったら漫画がいっぱいあり、むさぶるように読みました。