(1942年2月1日 - )は、東京都出身の医師・登山家
1960年東京女子医科大学に入学 山岳部に入りやがて岩登りに魅了される様になる
1967年マッターホルン 69年にアイガー71年グランドスジョラスと言うヨーロッパで
一番難しと言われた三大北壁に挑戦して日本女性としては初めての快挙
泌尿器科の医師として働く傍ら夫とともにヒマラヤトレッキングの魅力を広げるなど今も忙しい日々を過ごしています 古希を迎えた
体力とか気力とか其の時に持っているものに今は逆に山に合わせている
最近天候がおかしい 1980年代から 肌で感じていた
当時は誰も信じてくれなかったが、山の中にいると急激に温度が変わる
大雪渓を登るときに名古屋が38度の時に20度位だったが急に寒くなる(4度だった)
泌尿器科の医者だった 前立腺の研究をしていた
登山の時は健康診断している 医学全般は一応勉強する
子供のころに親にいろいろ連れて行かれた 親は両親ともに医者
東京で育てていたらひ弱に成るのではないかと山、海に連れて行ってもらった
高校卒業するまでには親のいう通りに自然に親しんでいた
休日は全然違う事をやろうと自然に親しむようにして、文化も学ぶには雨だったら映画館に行くとか、食事をするとかをしていた
大学に行っても日曜日だけは山とかに行くという事をしていた
月曜日に残務の勉強、仕事 をこなそうとすると3時間はかかると思っていたことが30分でこなせてしまうようなことがままある
積極的休養 頭を全部違う事に回していて、その間に今まで使ってきた神経とかそこでメンテナンスができて クリアに成って 効率がいい
自然の中ってただ単に楽しいという事だけで無くて人の頭の中から始まって全部メンテナンスする能力があるのではないかと思う
大学に入って最初に登山に行ったときは縦列でのってゆく形式に全然なれていなかった
(それまでは親と一緒だったので勝手に自分でペースを作れた)
辛かった 花があったり、鳥がいても休むことは出来ずにいた 岩にも登るようになった 自分で働き自分で自活するのが当たり前だと思っていた(親の教育がその様にしつけられた)
ヨーロッパアルプスに登りたいと思った時にトラブルが有った時に、新聞社にホットラインを使わしてもらいたくて行ったのに 「女だてらに」と言うように見られた
実積を気を作らなくてはいけないと思った
2人でマッターホルンに行った(下の1/3が氷壁 中が岩場 上が逆層) 4500m位の山
マッターホルンの場合は女性がどうのこうのと言う前に実積を作りたかった
技術は持っていると思っていた
ロッククライミングは自分を上げてくれる力があればいい
人間の身体は生き伸びられる様に出来ている
降りて来る時には余り感じなかったが 降りてしまってからやったとこれから自分が生きて行きたい道が開けたと思った
その時にウーマンリブとか女の人が何かをしたいと思った時に実績でものを言わないと駄目なんじゃないかなあと思った
各人がやりたい人が自分達だけでやればいいわけで皆で徒党を組んで地位の向上とか何とか云わなくてもいいのではないかと思った (個人主義になった)
アイガー北壁 沢山の人が亡くなっているが研究してルートを考えた
1963年より文化交流だとか、国益になる人でないとパスポートは得られなかった
「高所登山時における人体の生理学的変化の研究」と言うテーマに人工的な処で研究した結果を自然の中で実験するというテーマにしていくという事にした
肺活量、血液、尿 検査を全部やって行った
歴史を見ると死の歴史なので天候に左右されるとかで ダイレクトに登ぼることによって天候に左右されない方法を選んだ
とりあえず観察して洞察する
マッターホルンの経験があるので技術的にはいけると思った
1971年グランドジョラスは3大北壁を登った人が若干名いた
グランドジョラスを登ったことが無い人間がアイガーだとかマッターホルンの凄さを言うなと 3つ登ってから言えと言われる
それじゃあ登っちゃおうかなあと思っていたら 頂上で結婚式をやろうと今の主人から言われる(5人で登りにいって3人が立ち合い)
グランドジョラス山頂で高橋和之と結婚