2012年7月4日水曜日

八木功(ニーハオ大飯店主)    ・餃子と人情は私の宝物

 八木功(ニーハオ大飯店主78歳)           餃子と人情は私の宝物  
モンゴルで別れ別れになった父親を訪ねて、45歳の時に日本の地を踏む  
八木さんと4人の家族  日本語を習い料理を研究し、地元の人達からの温かい支援を受けて懸命に働いた結果、兄弟たちを合わせて12店舗まで大きくなりました    
旅順で生まれる 1934年 昭和9年   人を大事に一生懸命やるのは自分の為でなく みんなの為に八木さんは日本人 夜間中学に入って厳しく日本語を教えてもらった  
45歳から中国語から日本語に切り替えるので大変だった
 
うちの父(愛媛県松山市)が兵隊で旅順に行った 軍港としても知られる土地  
長男として生まれる  白玉山に登った時の思い出がある(5歳)
父が料順で店を経営していた  戦争が激化してきて様子が変わってきた 
お客さんに出すものが無くなる  モンゴルに行ってしまった (4年間過ごす)
1945年6月にその街が戦場と化してしまった  
父から先に旅順に戻りなさいと言われて母と子供達で旅順に帰った
父は残らざるを得なかったのでそのまま残ったがその後連絡はとれなくなってしまった 
食べ物が無くて会話が必要に成り中国語を習った 
朝4時半ぐらいにソ連人が住んでいる処にジャガイモの皮とかパンの切れ端とか拾って家に帰ってそれで朝食として食べた 
12歳 仕事を一日重労働をした 母も倒れて家族の柱として働かざるを得なかった 
 
薬代は全然ない 川に魚がいるので魚を食べれば良くなると言われたので冬に魚を取って2~3匹取って母に食べさせた
近所の方がコウさんがトウモロコシを25kgを持ってきた(弟をそれの方に連れてゆくつもりだったが) うちに其のトウモロコシを置いて帰って行った
16歳で大工になる  1956年 22歳の時に市の優秀青年に選ばれる 連続3年  
結婚は27歳 段々貧乏ではあるが生活は安定してきた
1966年 文化大革命前  公安局から葉書が届いた 日本から葉書が来たとの事 
返信を出しなさいと言われた 残留婦人の人に手紙を書いてもらってだした
文化大革命がありその後2年以上途絶える 
日本との友好条約が成立して 其の時から再度連絡が取れるようになった

父が日本に一人でいるので帰って来いと言われた 
当時生活は楽になっており日本語も全然話せない状態であるが父には会いたくて一時帰国する 会話はできない(父は日本語、私は中国語) 
ビザは一時帰国だけれども永住と書きなさいと言われた 
そう書けば永住できると言われたが、中国では現場監督の地位に有り知人も多いので、日本には戻れない 父が中国に来るようにと言ったがそれもかなわなかった  
父が厚生省に掛け合って一時帰国を永住に変えようと交渉していた  
わたしも日本に帰れば何とかできるようになるのではと思った

早く日本語を体得しようと思い、昼は葛西小学校 夜は小松川中学校の夜間部に通って日本語の勉強を始める  45歳 昭和54年
今中国料理店を経営して大成功する  中国料理をやるとは思わなかった  
父が料理店をやっていたので見よう見まねで覚えて行った
日本に帰ってきた時に先生が来客した時に水餃子を先生たちにもてなした  
これは美味しいと感動された
焼き餃子を食べたいと先生に言われた  
焼き餃子は中国には無いので判らないから先生と共にいろいろな店に食べに行った 
家に帰っていろいろ研究した 大連での焼き肉饅を思いだして 其のやり方を応用して先生が来た時に出したら先生が本当に喜んだ

おいしい餃子を日本の方に食べさせたいと先生方が動いてくれたりして小さな店を出したいとは思ったが 自信は無くて ある店を紹介して貰って1年半勉強して (経営も含めて)1983年 昭和58年 蒲田に店を開く事になる 「羽根付き餃子」として大盛況となる  
店を出す時にお金が無く 先生たちが37名の知り合いの方に声を掛けて食べてもらって 結局70名ぐらいの方から370万円を集めて店を出すことができた
店の選択が難しかった 半年かけて店を探した  駅から1分(本店) 
開店してから直ぐに行列だったのが本当に嬉しかった 1日3~4時間しか眠れなかった
いくら忙しくてもいくらお客さんが増えても料理の味の手を抜かない  
お客さんに喜んでもらえる     安い美味しいと喜んでもらったのが幸せと思っている
水餃子と焼き餃子はどちらが好きか→水餃子が好き   
蒲田は中国の人が多い コックさんは中国から呼んできている
留学生の手助けをしている