2012年7月10日火曜日

大田堯(たかし 教育研究者94歳) ・教育を問い続ける94歳の日々 2

大田堯(たかし 教育研究者94歳) ・教育を問い続ける94歳の日々
現在の教育  私が教育の研究を選んだ動機は 教育によって立派な人間を育てて
それによって社会を良くしてゆくという、こういう大切な仕事で有ると思って教育という仕事を選んだ
この考え方は実は問題ではないかと、戦争体験を通じて考えるようになった
教育とはよい人間をつくって社会を変えるなんて、そういう上から人間を眺めて或る計画の方向に
向けてゆくような、そういうことは命の尊厳な一人一人が
持っている貴重な設計図を持った命を大事にするという   
そういうすじから考えると無理があると考えるようになった

そこのへんの処を頭に入れながら 実際にどういう風な教育の状況が我々を包んでいるのかと
言う現実の教育の状況を見つめ直してみる
最近の経験を申し上げたいが 10/19から22まで韓国に行った  
1986年 日本の教育学会の会長の任務を与えられた時 韓国に一言お詫びを言わなくては
いけないと思った  朝鮮や中国に対して責任が有る 先ず朝鮮からと思った 
分裂状態でやむを得ず諦めた 私の命が有る時に朝鮮全体に対して朝鮮に謝罪
するという機会が無くなる 急に去年の10月に思い起こして謝罪したいと思った 
何を謝るかが問題  どんな植民地だったのか 称氏改名(日本人になれ)
日本語をしゃべりなさい 神社を尊敬しなさい そういう植民地政策なんですよ

白黒をはっきり区別する と言うある意味合理的なはっきり判る様な差別に対して
片一方は心の内面まで入って「日本人になれ」というそういう植民地政策をやってきた  
そこをお詫びしなければならない
其の話をした 朝鮮人の人には涙を流す人がいた  
しかしながら実は其の時に同時に日本は植民地にそういう日本人に成れという教育をしながら
教育勅語に同化せよという そういうような教育は日本の人民に対しては行われていた  
教育とうようよりも教化  「教え化かす」 内面まで支配するという
そういう教育 日本人を束にして教育をする   
そのことが我々人民にまでしたと言う事を、同時に朝鮮の人達に話をした
謝罪の時に私達が受けた教育もそうなんだと、そいう問題を持っていたんだと告げたんです

戦前の教育は忘れられたけれども、実は今も上から束にして教育して国益に沿うように
育てるという、古い教育感がずーっと尾を引いている まだある
そうでなければ私が教科書で28年間も裁判に携わることはない   
国が自分達の国益に沿うように人々の心を束にして変えようとしている
国定教科書は止めたけれど検定教科書で国民を教え化するという、教育の感念はずーっと
我々の底に流れている教育観なんです
この教育観  教育と言う言葉をいうときは よい教育によって人を育ててそして国家に貢献する様
な物の考え方は消える事無く残っている
1945年の敗戦で始末を付けることを怠っている、積み残している  
積み残しの上下関係の教育観と言うのは親の頭にも有るし先生にも有るし文部省にも有る
この現実を一遍清算しない限り 新しいアートとしての教育は表れようがない
 
学校の教師と言うのは使役動詞が多い 座りなさい 立ちなさい 日記を書きなさい  
何でも・・しなさい  じゃないですか
イギリスで言うと もしよかったら 読んでくださいとか 座って下さいとか  そういう助動詞が
ちゃんと有る  
日本は上下関係の言葉は多いが上からさせるとか 先生の言葉自体が子供を刺激するというか 
一段身分の低いものとして考える
其の考え方が生活の場の中や言葉の中にずーっと尾を引いている  
これはそれだけに影響力が多いと考えなければならない
親も自分に同化しなくてはいけないというふうに、自分の思い通りにさせたいという感じが、
いつも親にはあるんじゃないですか

処が親と子は違う  設計図が違う  父親のDNAと 母親のDNAとは 30億対の分子が
入り混ざっている 入り混ざっているのが子供なんだから違うんですよ 
同化政策と言うのは違いを認めないで全体を束にして、上から下に同化を求めるという気風は
ずーっと我々 尾を引いている訳ですよ
それは命の特性がしっかりと認識されてないという事だと思う  
一人一人の生命の母体と言うのは、一人一人違った設計図を持っている
「違っていいんだ」じゃなくて「違っている」と言う、動かしがたい科学的な事実の元に、教育は
営まれなくてはいけない  一人一人は掛け替えのない人なんです
それを安易に束にして同化しようというのは自然の摂理に反する   そこが大事なポイント
其の人の未来と言うのは予測しえない   どういう事になるかは言えない  
それぐらい可能性を一杯持った存在だという風に考えなくてはいけない
他の人とは違っているという事と同時に自ら変わる可能性を持っている 
  
そのうえで拘わりを持つ 拘わり合わないと人間という動物は生きられない
拘わり合いの中には人間同士の係わりもあるが 他の動物も食べているし 太陽を浴びている 
水を飲んでるし 空気も吸っている
他者との係わりの中で命はあるんですよ   
そういうのっぴきならない命の有り方と言うのは、しっかり認識するということは一人の子供と出会った時に
一人の他人と出会った時にもそういう生き物としての特徴をしっかりと自覚できれば
(中々難しいが) それが人権なんですよ
人権なんて法律に書いてあるものだと、皆簡単に思うけれども、そうじゃないわけです
生き物が持っているのっぴきならない特徴をお互いに尊敬しましょうという、そこのところに之からの
人間関係というものが展開していかなければならない、筋道だと思います
人間と言う者は 或はあらゆる動物たちは自分中心 先ずは自分の命を大事にしようとしている
そのくせおかしいのは 太陽に 或は他の動物に 空気に頼らないと生きられない 

自分の命を大事にしようと思っても 同時に他者に依存しないと生きられない
自分を大事にしなくてはいけないという内向きの力と 外のものに依存するという力は矛盾した
話だけれども人間はその二つの方向を持っている
二つの違う方向を統一するという事をやらなければいけない   
それを解決するのは実は右脳なんです
脳では外から情報が入ってくる  必要なものは記憶にとどめる  要らないものは排除する  
非常に巧妙に内向きの力と外向きの力を脳は最終的には統一している  それが学習なんです
学習によって変わるわけです   瞬間ごとに学んで変わってゆく  
生き物は全て学習をして自分を創り出している    教育が先にあるのではなくて、
学習から始まる     それを助けてゆくと言うのが、教育の仕事ですね
内向きの力と外向きの力を調整しながらやっている脳の新陳代謝の事を学習と私は考えている
人間は生まれながらに学んでいる 瞬間ごとに学んで変わってゆく  
それを生涯続けてゆく 
 
学習がやんだときが脳死  学習は生存権の一部
だからご飯を食べるとか空気を吸うのと同じように情報を吸って生きている訳です   
それが無かったら生きていられない
他の動物も皆それをやっている  長い進化の過程でそれぞれがやっている 
教育は人間が作った物で 学習は生命の歴史に繋がっている  
生き物は全て学習によって自分と言う者を作り出している
教育が先に有るのではなくて赤ちゃんのように学習から始まって それを助けていくというのが
教育の仕事ですよ
子供が母親の胎盤から出ると社会と文化が人間の場合は待っている  
用意されている社会、文化に適応しなくてはいけない
そうすると学習が必要と同時に教えてあげるということが(社会、文化)必要に成ってくる   
教育と言うのは人間の生存権である教育と言う厳粛なものを、世話をする仕事なんです

だから物凄く大事な仕事であり 命そのものを育てるという厳粛な仕事  
教えるものと教えられるもの 一人一人が違う
そこが同化するんじゃなくて響き合って変わり合う  之が共に育つ  「共育」  
これはアートとしか言いようがない 命と命が響き合う 違う存在が響き合う
演出家 それが先生 響き合うという演出をする  環境を用意する、教材を用意する 
そういう重要な仕事が教育なんだという事です
教育する場は学校とは限らない 余りにも学校を重視し過ぎる  
習ったことをどれだけ覚えているか というとあまり覚えていない
或る一冊の本で大いに心を動かされる  或はこの人に会った時に心を動かされる  
そういう様な事の中で人間は自分と言うものをつくってゆく

それが人間の育ち方だという 風に考えてもいいのかなと思います  
この国では学校というものがあまりにも重視され過ぎている 
いい学校を出たとか、でないとか そういう風な学校教育と人間の値打ちというものを簡単に
結び付けている
学校には上がらなくてもユニークな設計図と言うものをちゃんと自分らしい将来を築きあげるという人
はいくらでもいる訳ですよ
それぞれが違っているからそれぞれの持ち味を発見して 社会に出番を持つというような状態に
なった時に、人格の完成と言うことが言える
人格の完成と言うと、道徳的で型が決まっているように思えるけれどもとんでもない  
そういう風に人格の完成と言うものを、広く社会的、文化的胎盤の中で
考えるようにならないと、点数と順番に捉われている
 
そういうことで人間を評価することが、日本人の頭の中に入りこんでしまっている
一人一人のユニークさが、出番を待って社会的な貢献をするように、多様な教育が有っていい
教育と言うものの有り方を、学校教育等に捉えないで広く色んな局面の中で、人間は人格の完成
の可能性を、蓄えることができる存在なんだと
こういう風に考え合うという様な、気風に成らないかなあと考えるんですが
広島県本郷子ども図書館 地域の人達に何か役に立つ事は何かないかと 考えてきたのですが
 本郷町の家内の実家が潰れ、後は私の妻しかいない
妻の土地は公共に返すべきであろうと寄附することにしました 
木造の家で子供達がゆっくり寝ころんで楽しむような絵本図書館をつくろうと思いまして
他の処からも寄贈していただいたりして 今は6000~7000冊有る  

ボランティアで運営して運用を住民がすると言う図書館を作った
あそこでは読み聞かせとは言いません 読み語りと言います   やらせとは違う
絵本を見るだけでは十分ではない  自然と言う大地の上での、子供の自発的な遊びは非常に
難しくなってきている  川は立ち入り禁止 道路はアスファルト
今の子供にとっての不幸は、非常に自然と言うものが、自分達の遊びの舞台とはなりにくい 
本当は人間が成長してゆくためには 周りの自然の生き物と付き合いながら色んな発見が
有ったり驚きが有ったり そういう発見や驚きを友達と一緒に分ちあう
そういう本物を仲立ちにして、実際に触れながら感動を分かち合う  
そういう機会が物凄く少ない 

図書館は駅前なので自然はどうしても遠ざかりますが、裏の方は自然が有るので広場を用意してある
埼玉県 野外ミュージアム構想  1260ヘクタール 広大な地域 芦ノ湖の2倍 さいたま市を南北に
貫いて湿地帯 幕府がそこを水田にしたという歴史が有る
見沼田んぼ  住宅等が進出 虫食い状態になっている   廃棄物を投入する者がいる 
そういう場所は経済成長の遺跡と言う札を立てなさいと
ああせいぜいそんなことですよと  そして出来るだけありのままで大事にしましょう  
其の大事さを分かち合おうと そういう風な空間であるという印象を
回りの人々にして貰うと  これがフィールドミュージアムと名付ける所以なんだと
 しかしそれだけではもの足りないというんで 大学に講座をお願いして
学生諸君はフィールドに来て 農民と話したり 実際に農民を助けたり そこで別の話を聞いたりして 
そういう講座を作って2年続いている

あの映画「かすかな光へ」の一番鍵になることは 命と言うものである 
命と言うものがものと金によって二の次になっている
先ずお金とか 先ず物とかに考え方に対して頭がむいてしまって 肝心な命というものに大事に
するそういう方向に頭が働きにくくなっているというのが、現実だと思います 
そのことが人をばらばらにしている  そして子供達の成長も阻んでいる   
次の世代への贈り物というそんな社会を送り渡すわけには行きません
だから命の為に金を使い 命の為に仕事を作りだす  そして命を中心に社会を前に進めてゆく  
そういう命の絆によるセーフティーネットを世界的な規模で考えなければならない
単なる見沼ミュージアムではないんです 
 
見沼が世界中に有る 世界中が命の問題に直面している
原子力、原子爆弾、その他戦争  テロ その他いろいろ それらも物と金に非常に関係が有る   
そうだから地球的な規模で 見沼対人間と言うようなものが有ると思うんですよね
そういうスケールに展開するというのが私の夢なんですね
夢が有ると夢に一歩でも近づこうという思いになれる様な気がする   
なかなか思い通りには行かない  かすかな光を目指して一歩一歩余生はわずかだ
けれども そこに期待を持ち続けてあの世に行くかなあ
余り後ろを見ないで前を見てきた人間なので 「夢に始まり夢に終わる」というのが
 私の味わいと言うかそんなものをわずかに自覚していますが
残された日もそうしたいと思っている