2012年7月12日木曜日

桑村綾(料亭・和久傳女将)     ・料亭を立ち上げる

 桑村綾(料亭・和久傳女将)         料亭を立ち上げる          
京都府丹後地方 峰山の老舗料理旅館に嫁ぐ 丹後ちりめんが衰退する中 思いきって京都中心地に料亭を開きました 
駅ビルの中に和食店を経営したり、お弁当や加工食品の販売などのビジネスにも乗り出して次々に成功してきました  
その一方丹後地方にも思いは強く食材工房を京丹後市に建設、広大な敷地を利用して森を育てようと植樹も始めました  
子供達の為の論語塾を開催するなど人材の育成などにも力を入れています
 
昭和39年に嫁いでくる  縮緬産業の集散地なので単なるいなかではなかった 
料亭旅館、お茶屋さんが有り芸姑さんがいて 衣装が良い 
お茶屋も10軒ぐらいは有った  芸姑さんも50人ぐらいはいた    
丹後縮緬  はたや 着物が盛んな土地 木造で中心地だったので旅館には適さなかった  
デパートとかスーパーにしたかったが商売変えしないでくれと200人の人が10万円/人出してくれた このご恩は忘れられないと思った 
こちらからお願いしたのではなく自然に後援会を作ってくれた  
銀行に買ってもらって山の方に移った 山を利用して平屋にして43年に変わった 
丹後地方全体が後援会を作ってくれたのが後に成るほど夢のように感じる

昭和2年に丹後大震災が有って3000人が亡くなった (1万人の街で) 
夕方だったので火事が凄かった 
大震災の後に一番最初に3階建ての料理旅館を作った
そのことで勇気付けられたとの新聞が記載していた   
丹後縮緬に陰りが出てきて料理を出来るので法事、お祝い事が無いかと出前を出来ないかを考えた
リヤカーが有ったので(お風呂を沸かすために材木を運搬していた)それを利用してやったりしていた
3000坪の土地が有るが厳しくなってきた  宿泊に力を入れようと思った 
客を取り込むのは並大抵ではなかった  料理に特徴を出した
蟹が有名なのでカニ料理を(1等蟹を使った料理  焼いてみようと思った)やってみた  
試食してもらったら好評だった 全国紙に乗って全国から来てくれた

衰退は免れず京都に進出することにした  (毎月毎月赤字で 京都への進出には二の足を踏むというのは考えられなかった) 周りから反対された
応援した方たちには申し訳ないと思った  (縮緬の衰退を判ってくれなかった)   
 最後に潰す時には署名運動もされた 
自分にあえてプッレッシャーを掛ける  
銀行に頼んでいい物件を一緒に探してもらったが気にいらなかった 
たまたまお茶屋さんからの情報である場所を提案して貰う
購入するにはお金が足りず今回は後援会を作ってくださいと廻って歩いて最終的には銀行も動いてくれた
料理は同じことをしても駄目だと思った 輸送が昔と全然違うので工夫をした  
いなかの特徴を出したかった  今とれたものをそのまま 蟹の最盛期
家は典型的な数寄屋作り  いろりを作りたいと言ったらそれは面白いと言ってくれた (桑の木でつくるので数寄屋作りとは真反対)

どこにもなく珍しがられた  蟹が終わったら一人も来なくなったが段々と認められるようになったコンピューター管理によって2度と同じ料理は出さないようにした
料亭の欠点は自分が今日これを食べたいなと思っても食べられない 
それを何とか料亭に持ちこめないかと考えたが、それは大変無理で板場と相当話あった
お客さん管理をしてすべて予約制にしたら仕込みの時から変えられるじゃないかと管理を仕掛けた
6部屋とも料理が違う  夜中の2時3時まで話しこみましたといまだに板場がいう   
日本料理は先付けから始まって 向こう付け お椀 と言うのは決まりものであります   
工夫をして段々盛況になる   娘が禅宗のお寺に2年間修業にいく   
堀炬燵式が好評(足が楽)
カジュアルな室町を開店させる  京都駅に出店  
丹後から京都に進出した時は尻に火が付いた状態だったので怖いもの知らずの状況だったが 京都駅の場合は当初は断ってたが 何ベんも足を運んでくるので 又京都駅の工事をしている状況をみてこれは凄いので是非入ろうと思った  
切り口を変えて出した方がいいと言われた  1品ずつ出すようにした  
当初は大分文句を言われた
知らないということは強い  図々しさ  教えていただく