横井美保子(故横井庄一夫人84歳) 平和への願い横井庄一の心を残したい
1927年東京都生まれ 1972年 横井庄一さんと結婚 1915年生まれの横井庄一さんは戦後28年してグアム島から生環 (57歳)
「恥ずかしながら帰ってきました」 帰国の時の言葉 戦争の終結を知らず ジャングルでの生活を生き抜き,ものを大切にし命を大事にするという生き方に人間的な横井さんの人柄に美穂子さんは感銘しました 1997年82歳で亡くなる
2006年自宅を横井庄一記念館として ゆかりの品々を展示しています
記念館をスタートして6年 和室3つ グアム島で生活していた穴の再現
本当に使っていたものはグアム島の博物館に半分 名古屋市の博物館に半分ある
幡織り機 作成 して自分の根性だけで成し遂げた
1941年に召集を受けて 19年満州からグアムに配属 戦後28年 57歳で帰国
帰国の第一声は実直な気持ちが出ている
横井さんとは見合い結婚 居候の身だと一日も早く結婚したかったようだ
以前に他に見合いをしたが受諾したが断られた 見合い後の3か月で結婚
私は父の仕事の関係で転校が多く有った 美保子さんは「鎮魂の旅路」を出版
司会者の人から 奥さんはどうですかと問われて おもむろに 紙を取り出して 「神のみぞ知る」と言ったが その紙には何も書いてなかった 「紙のみぞ知る」
ユーモアの有る人だった 「済んだことは済んだことなのであかるく生きなけりゃ損だ」 という気持ちがあった 57歳で私は44歳の時に結婚
お参りにグアム島に旅行に行った際に「出来る事なら 海が沈まないものなら 一足一足でも歩いて日本に帰りたかった」とポツリと言いました
海と砂浜と空の綺麗なあの島に2万人の守備兵の内 1900人の遺骨が埋まっているとはとても思えませんね
彼の良いところは真正直でまっすぐで燃えるような自立心を持っていた
晩年陶芸に打ち込んでいた 暇さえあれば土に向かっていた
灯油たいて焼くやり方であった 窯は小さい 個展 作品展を実施した
凄い盛況だった 3日で凄くくたくたに成ってしまった
記念館には外国からも見学に来る 台湾 アメリカ等 子供達は沢山来てくれた
日曜日(毎週日曜日に開館)にどんな人が来てくれるか楽しみです 私の生き甲斐です
横井はストレスから胃が重い 病院に行ったらどこで切開しますかと言われ癌だと判った
手術をして年齢的に堪えて仕舞っていろいろな病気が出てきて,パーキンソン病になり身体が動かなくなり 亡くなった
4つの願い
1.グアム島で,でんでん虫、蛙、鼠を殺して彼らの命を奪って生きながらえた人間だから彼らの碑を 建ててくれやなあ と言う
2.私自身の陶芸品を民芸館に寄贈してほしい
3.横井記念館を作ってほしい(世の中からどうしたら戦争を無くせるか,人間がもっと無欲に成ること)
4.自分はグアムでの生活は書いたが その後の日本での生活を妻に書いてほしい
(「鎮魂の旅路」)
広島のことは夫婦で行くが あれほどのショックを受けたことはない
世界の人にあの惨状を見てほしいと思う
記念館をやってみて初めて私が会いたいと思っていた方が来てくれてよかったなあと思います
「幾万の命奪いし この島で 「ぬかずき祈る戦なき世を」
「眼を閉じて 開きて思う 玉砕の グアム島の事 庄一の事」
303部隊(横井が所属していた部隊)の遺族の方との 鎮魂の旅だった
むなしいとの家族の人達の思い 心が癒える事が無い