2011年11月7日月曜日

岡田芳郎(77歳)        ・ 定年人生を心豊かに2

岡田芳郎(77歳)        定年人生を心豊かに
詩を良く書いた 友達、会社の先輩後輩の、結婚、転勤、定年、昇進とか亡くなった時 
集まった席で詩を読む(スピーチの中の一部)
「サラリーマンの酔い」
「サラリーマンは酔わずにはいられない 何かに 仕事に酔いたい 遊びに酔いたい 
一日を何かに酔いたい なぜならそれが生きるってことだから
 
いい仕事をした夜は仕事の酔いを酒で醒ます 良い酒とはそんな酒だ 
いい仕事が出来ない時 酒で命をけしかける やるせないけどそれがサラリーマンの酒なんだ
何にも酔えない一日 そんな日は人生じゃない 
何にも酔えそうもない日は人に会ってその人の酔いを借りるんだ」
今生きている時が中心 定年後に話すのは仕事以外の事を話すのが良いと思う 
映画、本、旅行、・・・酔う対象を話す その話をしながら酔う。
そこにしか人生の中心がなければ多分そこに戻ると思う(仕事の話に  会社での栄光の日々) 
「8-7か 1-0か」

「波乱万丈な人生がある 大金持ちから破産者になり また盛り返したものの 政治家を失脚し 
小説家として成功した男 事業を成功させ 新しい映像システムを作り
世界のトップスターを妻としながら 航空事故で死んだ男 
大名の娘に生まれ 幸せな少女時代を送り 家が戦いに敗れ滅んだが 助けられ 艱難辛苦の末
最後は将軍の妻となった女 野球でいえば 8-7のシーソーゲーム そんな人生も面白い
 しかし人に語れる目覚ましい成功も 輝かしい社会的地位も無く
毎日決まった時間に家を出て 伝書鳩のように家に帰り 些細なことにもくよくよしながら 
定年を迎える 吾らの時代の大多数の人間だって 1-0の投手戦のように味わい深いゲームなんだ
人生のゲームは点数の多さが大事じゃない
 
どれだけ人生といい勝負をしたかが生きた意味なんだ 自分の人生に負けるな
一投一打に魂を込める 」  
大金持ちから破産者になって盛り返したけれど政治家を失脚し小説家になった人→
イギリスの作家ジェフリー・アーチャー
世界のトップスター(エリザベステーラー)を妻としながら 航空事故で死んだ男→マイケル・トッド 
家が戦いに敗れ滅んだが 助けられ 艱難辛苦の末最後は将軍の妻となった女→江(ごう)
40年勤めて判った事がある これからやりたい事をやれるんだと言う事 
束縛されるものは無いんだという事 
結果は問われないと言う事 魅力のある人間であり続ける事が大事
現役時代の魅力ある人間→ 

①社会的存在感を持っている 
②美的な価値(態度、物腰等)を持っている 
③未来展望(未来についてのビジョンとか上昇発展してゆくものを持っている) 
 定年になると役職等無くなる
  
定年後を生き生き生きてゆくためには でも魅力ある人間でなければならない 
そのためには上記三つは形を変えて持たなくてはいけない 
①会社がないんだから自分と社会を持たなければいけない 
 仲間、サークル、家族であったり(肉声の届く社会)
 自分の世界を持つ 一人でも社会だと思う (山里離れて一人で住んだとしても社会だと思う) 
 本を読んで一日を過ごす、畑に一人で行って野良仕事をする
 これは自分一人の世界ですね 自分一人の世界の中で充実していると思う 
 こういう事が定年後の(再構築した)社会的存在意義だと思う

②美的な価値 現役以上に大切だと思う 現役時代は美的な価値が低くてもパワーと云いましょうか 
 社会的な影響力とか力がありますから皆に尊敬されたけれど
 今はそうじゃないんだから美的な美しい態度とか美しい言葉とか美しい態度、物腰こういうものを
 持っていないとこれからの魅力ある人間とは云えないんじゃないか

③未来展望→老人になったら未来展望が要らないかと云うと、とんでもなくて、矢張り楽しみとか
 続ける事、やりたい事を見つける 諦めない 一人で取り込む事を見つける
 自分の尺度を持つ  定年後の生き方と云うのは個人の力ですね 
 自分の持っている力をもう一回見つめ直して再構築してゆく
 
 人生は定年後からが勝負だ まさしくそうです  
 大事なのはこの世界に自分は自分しかいない と云う事を認識出来れば良いんじゃないでしょうか
 自分が満足できるような自分の世界を持って生きていければそれで十分なんでしょうかね  
 自分のペースでゆっくりと歩いてゆく  でも諦めてはいけない
 自分を受け入れる場所がある それを自分で見つける  
 昨日の他人は今日の友かも知れない(広い範囲を対象に出来る) 
中国の宗の時代の思想家に「朱新仲」と云う人が書いた 「人生五計」と云う本がある
5つの計画を立てろと言っている  ①生計、②身計、③家計、④老計、⑤死計
  
①生計(自分に与えられた命を如何に大事にするか、全うするか 一つは健康とか体調 
 もう一つは命と云うものを何のために使うのか 人生目標とか精神目標とか人生哲学とか 
 生を充実するための計画を作りなさい)
②身計(社会生活とか社会活動とか如何にきちんと行うか 身の処仕方) 
③家計(家庭をどのように維持してゆくのか 夫婦、親子、金銭、行事、食事、健康、隣人関係とか
 家庭を維持してゆく為の計画)  
④老計(美しく老いる計画  人間は美しく死ぬよりも美しく老いる事の方が難しい 
 年を取れば年を取るほど人生が難しくなる 
 だから美しく老いる計画を)  
⑤死計(如何に死んでゆくか どんな思いで死を迎えるのか この問題を考えるのが死計)

「3月のプロムナード」
「貴方が廊下を歩いてくる やや足早に 瞳が笑っている 恋と青春に見放された女は 
誰にでも腹を立てると言ったのはスタンダールだが 恋と青春に包まれた人は
誰にでも微笑みかける 貴方が友達とお茶を飲んで いる ちょっと首を傾け 話を聞きながら 
幸福になる偉大な技術とは 上手に生活するに他ならないと言ったのは
ルシスだが いつの間にか幸福を掴む人は 生まれながらの優しさを持っている 
貴方が話しかける部屋の中で そよ風がカーテンを揺らすようにゆったりと
自分の感情は大声で怒鳴るよりも 静かに囁く方がよく表現できるものです
 といったのはアンネ・フランクだが 

控えめで静かな人は自分の気持ちをさりげなく表わす事
を知っている 貴方がメモを書いている机に向かって 真面目に注意深く心を込めて 
枯れしぼんだ木の葉でさえも 愛がその上にかがみ込めば 豪奢なものに思われる
 と云ったのはシュレーダーだが
 
喜びと愛に満ちた人はどんな日常の事物にも 華麗な輝きを与える
 貴方はまぶしい3月のプロムナードを愛する人と歩くだろう
その道にはクロッカス ゼラニューム、サイネリア ヒヤシンス ルピナスが咲き乱れ 多分ワーグナーの
ローエングリーンが聞こえているだろう かつて鳴り出でしもの 時を経て又鳴りいずれば
幸福も不幸も歌となる
と言ったのはゲーテだが 

これからの2人の過ごす日々は喜び、苦しみ、
悲しみ、楽しみ 全てがかけがえのない味わい深い交響楽となって
いつか二人の心に響き渡るだろう 
そしてその頃21世紀がベンガルの虎のように誇りと活力に満ちてやって来るだろう」
 
観察力→日常の観察、本で読んで気に入った言葉とか気になった言葉とかを書き留める習慣
があったように思う 

ユングが云っている幸福の5つの条件
①心身が健康であること  
②朝起きて今日やることがある事  
③美しいものを見て美しいと思える事  
④楽しい対人関係が保てる事  
⑤ほどほどにお金がある事

「分け前  佳子(娘)にあげられるもの」  詩
「私の分身である佳子に分け前を上げましょう  生きている喜びを沢山 生きている悲しみは
出来るだけ少なく 私が生きられなかった生をもっと 私が見つけた素敵な世界を 
もっと そのために私が佳子に上げるものはお金ではありません 知恵でもありません 
ユーモアでもありません 経験でもありません 夢見る力でもありません
ただ、私と雅恵が生きている事 それだけです それが私達のささやかな でも最大の佳子に上げられる 
分け前なのです 私とママは佳子の分身です」 
詩を書くと言うのは習慣  降りてくる感じ  心のゆとりが必要なのでは  神経が研ぎ澄まされて
いる時にふっと出てくる時が多い

「同じ人生」  詩
「私のしてきたことはいくつかのささやかな成功と 数多くの失敗の連続だった 
それでも神様に云う事が出来る もう一度生が与えられるならば まったく同じ人生を
やらせて下さい 同じ妻と子供を与えて下さい  人生とはそれほど価値がある 
どんな人生にもそれなりの楽しみを作ることが出来る 
私は自分の人生にある深い味わいを味わい
味わっていない 深い香りをまだ嗅いでいない 他人の人生にそれを見つけ 欲しいと思うより 
自分のなかの広大な宇宙に それを探したい 
人は誰でも一人一人が深いゲームなんだ
人類のアナロジーであり 宇宙のアナロジーだ
 私はまだまだそれを楽しみたい もう一度人生を歩き直すことが出来るなら 
同じ人生にもっと深い味わい良い香りを得られるに違いない」
素晴らしい人達、芸術等々出合ってきたが薄っぺらい付き合いで終わってしまったのではないか 
違う人生を歩むと言う選択肢もあったでしょうが、 
私がやってきた事をまったく同じにやったとしても もしこういう認識を持って 
もう一回繰り返したら そのひととももっと深い会話が出来たんじゃないか 
もっと良い付き合いが
出来たんじゃないか    世界の都市へいっても深く観察できたのではないか 
上っ面をあわただしく見て過ごしてしまったのではないか そういうような悔いが残っている