2011年11月14日月曜日

澤瀉徹郎(“日ポ・サロン”理事長)   ・留学生の“日本のおやじ”として

澤瀉徹郎(“日ポ・サロン”理事長75歳)                  留学生の“日本のおやじ”として 
日・ポサロン ポーランドとの国際的な文化交流  
秋にポーランドの料理を楽しむ会プラス音楽の集い(ショパン)
第10期生(今年)の留学生が一緒に楽しむ  
2002年に第1期生が来日 第10期生は神戸大学に入る(アンナさん)
毎年1名の留学生を招待する 日本とポーランドとの文化交流 
 留学生の生活のアドバイス 面倒を見ている 
改めて日本を見直すことが出来る 

1918年 ポーランドが独立するが、ロシア革命に巻き込まれると同時にポーランド人がシベリアに捕虜と云うか抑留されてしまい帰るに帰れなくなったしまう
飢えと寒さで悲惨な状態に追い込まれる  
何とか人道的に救ってほしいと全世界に向けてポーランドが声をかけたが、時代が時代だけに受け入れてくれなくて、其の時に唯一日本政府が立ち上がり、日本赤十字社が受け入れシベリアから子供たちを756名1920年ごろに受け入れ、怪我をしていたり、病気をしていたり、ボロボロの服を着ている状態、手厚く看護して本国に戻した、歴史的事実があった  
その人達の子供或は孫がこの事実を後に伝えた
 
存命の人はいないと思っていた 
2002年に天皇皇后両陛下の会合の席で90歳を越している高齢の方ですが、この席で是非日本にお世話になった事に対して、お礼を述べたいという申し出がありまして、ポーランドの日本大使館で対面した  
其の老人は着物を着て、蚊帳で寝たこともありました 
日本人が非常に優しく膝に抱っこしてくれた事を未だに覚えています 
今も覚えている歌があります
といって「もしもし亀よ、亀さんよ・・・」とうたを歌った  歴史上の証人がいた

神戸淡路大震災、東日本大震災に対して非常に心配して子供たちをポーランドに呼ぶ事になる (心のなごみ)
現役の頃は銀行マン 止めてから会社を興して、65歳でフリーとなり その時たまたま日・ポサロンの発会に出合う 是非会員になりたいと思い会員になる 
ポーランドを知る事が日本を知ることになるのですよとのお誘いがあった 
2007年から理事長になる (ポーランドとの懸け橋の一助になればとの想い)
彼らが日本の文化を学びたい気魄の前には言葉の障壁は無いと思う  
教える事も多いが教わることも多い(古典芸能、美術等)

ポーランドにはさくらの花がない 留学生は桜を非常に観たがっている
東日本大震災の時にポーランド ワルシャワ大学 でも56通の手紙が来た(即刻 対応)  
日本学科の人々から温かいメッセージをもらう 千羽鶴も頂く(折り紙の習慣は無い)
今後は→ポーランドの理解を一人でも広がるように頑張ってゆきたい
日本で学んだ留学生がポーランドでも活躍している 
京都大学に入ったある留学生は大手自動車メーカーの関連会社に就職しました 
その後その会社がポーランドに進出、ポーランドでその日本企業で働いている  
ワルシャワ大学の日本学科で教鞭を取っている人もいる  
茶道で裏千家ポーランドとして茶道を教えている