夫 小西俊夫さんは広島の被爆者でした
兵隊で江田島にいて原爆投下直後の広島に救護に入っての被爆でした
小西登紀子さんの被爆体験記をご本人と一緒に朗読した次男の妻 ひろえさん(51歳)とその長女 ゆうきさん(18歳)
今年 「ピース大阪」で登紀子さんの被爆体験記を3人で朗読されましたね
経緯は→誓いをしてくだすった新風書房の社長に昨年に 応募した それが採用された
朗読をすることになる(3人で読むことになる)
浦上天主堂の近くに住んでいた 大浦天主堂には行っていた(学校の近く)
1945年 立石みかさん(登紀子さんの母親)は当時41歳で長崎洋裁女学校を経営していた
(学院長)
軍の要職の方が来て母親との話があるので、登紀子さんは学校の方に先に行くように言われたが、お腹を壊してしまっていて行く事を拒んだが、無理やり母親から学校に行くように言われ、ようやく行った
これが助かる事になる 用事があり中央市場に居た時に原爆にあう
防空壕に逃げ込む
岡町(母が住んでいる地区 ほぼ爆心地)は今燃えている最中なので行ってはいけないと止められ、翌日にいく
母の学校も燃えていた 回りも燃えてしまっていた
人間の姿も見かけるが男と女の判別も出来ないような真っ黒焦げの状況だった
母を探した
.12歳ぐらいの男の子が茫然としているのを見かけ、声をかけると矢張り同様に親を探しているとのことで一緒に探すことになる
浦上天主堂の近くで11日に母親と出会う
かすかに声が聞こえてくる 母の声と判る やけどはしていなかった 喉をやられていた
会えただけで幸せだと思った 病院に連れてゆく
そこらへんでみんな死んでいる 赤チン塗るだけでは当人は死んでしまうと思った
14日に亡くなる
生きる意欲は有ったがどうにもならなかった
母は学校を何とか大きくしたいとの思いが強かった
登紀子さんの嫁に被爆体験を話す
ひろえさんは広島出身 広島での被爆体験話は聞いてはいなかったが
ゆうきさん 学校では戦争の話は聞いてはいなかったが 祖母から話を聞いていたのでいろいろの出来ごとがショックだった
次の時代の方に話していきたい
一般には原爆の話を聞いてくれないが孫は真剣に聞いてくれた
登紀子さん 結婚、出産 いろんな事を考えた
産んでいいものかどうか産婦人科の先生に聞いた
貴方は健康体だから産んでも大丈夫だと保障するから、安心して産みなさいと言われて産む決心がついた
福島原発 こんなに日本に多く依存しているとは思わなかった 原発を撤退してほしい
核兵器について→いろんな国が持っている事に対して経験を訴えて原爆の悲惨さを知ってもらいたい
亡くなった以外の人に何十年と苦しんでいる人達がいる